足利季世記
五
神楽岡合戦拝当流弓の根本之事
抑江州衆、近年弓の上手にて、他国に超過して、あまた其芸おたしなみ、其名お上げし事は、明応の比、四日置とて四人の射手出来して、名誉の射芸お顕しける、其中に伊賀国に、日置弾正忠豊秀と雲者出来て、当流お射初め、故流の射形異形なり卜て、日本お弓修行して江州に来り、佐々木高頼、同定頼、二代に仕へ、弓の師と成、入道して瑠璃光坊と号す、法名以徳と名付ける、以徳、偏く日本お廻り、弓の弟子お尋る、近国の河森の住人吉田上野介豊稔に勝る弓あらずとて、則弟子にとりて、一流の秘曲一々相伝す、豊稔法名道法、其子出雲守豊経に相伝す、出雲守法名一鴎と雲、一鴎が屋形義賢〈○六角〉に相伝被申ければ、正しく日置より三の一人相伝し、的博は、義賢天下無双の奥儀お伝え給ひける、義賢より一鴎の子息、後の出雲守、其弟六左衛門以下悉く相伝ある、今に至るまで日置の末流たる者、皆義賢の末葉也、後の吉田出雲守が兄弟子其の流、一派々々お立て、、皆当流の元租と成る、されば義賢の近く召仕れし士、一人として弓お以て高名せずと雲事なし、依之祠楽岡の敵おも、かやうに射払ひけると聞えし、
抑江州衆、近年弓の上手にて、他国に超過して、あまた其芸おたしなみ、其名お上げし事は、明応の比、四日置とて四人の射手出来して、名誉の射芸お顕しける、其中に伊賀国に、日置弾正忠豊秀と雲者出来て、当流お射初め、故流の射形異形なり卜て、日本お弓修行して江州に来り、佐々木高頼、同定頼、二代に仕へ、弓の師と成、入道して瑠璃光坊と号す、法名以徳と名付ける、以徳、偏く日本お廻り、弓の弟子お尋る、近国の河森の住人吉田上野介豊稔に勝る弓あらずとて、則弟子にとりて、一流の秘曲一々相伝す、豊稔法名道法、其子出雲守豊経に相伝す、出雲守法名一鴎と雲、一鴎が屋形義賢〈○六角〉に相伝被申ければ、正しく日置より三の一人相伝し、的博は、義賢天下無双の奥儀お伝え給ひける、義賢より一鴎の子息、後の出雲守、其弟六左衛門以下悉く相伝ある、今に至るまで日置の末流たる者、皆義賢の末葉也、後の吉田出雲守が兄弟子其の流、一派々々お立て、、皆当流の元租と成る、されば義賢の近く召仕れし士、一人として弓お以て高名せずと雲事なし、依之祠楽岡の敵おも、かやうに射払ひけると聞えし、