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踏水訣
延享の比、吾侯〈○細川重賢〉入国の時、肥後熊本へ著の節、印日余〈○小堀常春〉が游お命じ給ふ、花甫の泉水にて游ける時、大に賞嘆したまひ、万事聞及びしよりは、見てはそれほどに諸芸其に無きものなるが、余が游は、聞及び給ひしよう賞嘆したまひぬと仰有、吾侯も其日より修行し給ひ、毎日未の刻より暮まで、雨天晴天の差別なく、修行し給ひける故、実父伝受の通言上しければ、一夏中に、達者游のぬきも自由にて、吾侯の抜游たまさり給ふ他侯希なるべしと思へり、或時祠水といふ処に、漁に行給ひしに、炎天の比にて、えばらく小舟に休みたまひけるが、手ぬきもゝ引わらぢおはき給ひながら、小舟より水に飛給ひ、向の岸に游著給ふ、如斯の達者ためしおなし給ふ、近習の若輩何れも修行命じ給ひけるに、一同に稽古にかゝりし面々、吾侯の抜游に及ぶものなし、余七歳の時より、実兄村岡宇平次九歳成しに、兄弟白川傘淵と雲所に、実父蓮行、水游稽古させられ、余九歳に成ける年、白川世継淵と雲所にて、川游支配頭沢村主膳といふ用人、游見分しける時、我等兄弟も游けるに、賞美他に異にして、十一の歳、先君宣紀公、天秘淵游場にて、水游見給ひける時、兄弟共に游たり、又十三の年、同所にておよぎ、両度共に先君賞美お蒙り、十五の年、伯父小堀茂竹猶子に相成りて、茶事お家業とする故、それより家業にかゝり、游の事修行止たり、或時実父、兄の宇平次同座にて咄けるは、其方など程に水お游得ては、水おこなすの、うくのといふ心にては、游の位つかぬものなり、もはや水お游得ては沈まぬものなり、蛇の手も足も無くして、水に浄み、前後左右に、白由に首おあげ行お見て心得べし、其方など程に水おうき得ては、水おこなし、浮気お止めて、身は浄たるもの故、游の手なり、向に行く気位お心にかけて、今より游ぐべし、りきみの無き様に水おあいしらい、游に艶のつく様に心懸べし、万事の芸皆同じ事にて、りきみ有事お嫌ふなり、吾無手勝流の居合不残樽受して、今人にも師範おするに、其人の修行に応じ、初心の内は、随分達者にわざおはたらかせ、それより段々、心気の工夫おさせる事也、万物一理なりと、実父の申せしお、余も同座にて此詞お聞、さて〳〵道理哉ご戚心して、夫より養父家に帰り、門前白川の端故、度々水に浄みて、実父の詞のことく、身の浄に構ず日々游げども、其気味蝣の艶の付たるお知らず、浄に心お付ねば、身も沈みて伸もせず、数日游けれども埒明ず、合点もせず、是はならぬとおもひけれども、実父の詞お信じて、また日数、水に強くさはら皰やうに、沈みお構はず、折々游けれ共、終に合点せずいたりしに、或年の夏、実父所に起居お尋に行けるに、傘淵に、沢村主膳子供引つれ、游けいこに出しと聞、余も游たくおもひけれども家業異なる故、表向不都台と思ひ、何となく傘淵に行たりしに、主膳も実父も、余に游べしといひける故、則一遍游けるに、実父も主膳も、其外川方の面々も驚て、游の艶お賞美せずと雲ものなし、実父も余不審にて、今一遍と望有り、余も又游けるに、愈つやよく游出来たり、見物の面々、皆実父に向ひて、如何してあの艶ありやと問ければ、実父も賞嘆有て、外に何ぞ訳なし、先年宇平次同座にて、游の心持お語聞せしばかりにて有ると答へける、余も今に心にとくと合点ゆかねども、実父の詞お信じて、数日游ける故と思ふなり、夫より余が游、国中に名高く成りて、所々川々、游所望ありて游けれども、其妙お得たる事お知らず、されども諸国の游の風お見るに、師の伝異なるお知れり、其人の游お見るに、随分達者なる游様なれども水の踏様、身のうけやう、我実父に習ふ所に異なり、おの〳〵一理有べけれども、余が実父の教る処お伝受する時は、游の艶も出来て、抜游達者に成て益あるべし、万事の芸、諸流に成て、師伝さま〴〵なり、游も同じ事なり、
余が実兄宇平次、游は達者なる事、及ぶものなし、白川にて、居合刀お帯して、湯衣お著、川上へ早抜游にて、游登る事自由なり、其達者なる事、国中に、一人も宇平次に及ぶものなし、実父常々人に語て日、達者游は、宇平次に長順及ばず、艶游は、長順に及ぶものなしと、称美せられし事なり、また艶游も、長順には宇平次及ばずこいへ共、余人は、宇平次が艶に及ぶ者なしと、語られしなり、誠に俗にいふごとく、馬と川は乗りて知り、游て見よといへるが如く、畑水練にては、用に立ぬもの故、士たる者、修行有べき事なり、