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地は、つちと雲ふ、天に対する称なり、国は、くにと雲ふ、原と土地の一区域お称する名なり、故に大にしては日本全国お謂ひ、小にしては一郡一郷の地おも謂へり、抑々我邦の国号は、遠く神代に在りては大八洲国(おほやしまぐに)と雲ひ、葦原中国(あしはらのなかつくに)と雲ひ、又瑞穂国(みづほのくに)とも雲ふ、神武天皇都お大和国に奠め給ひしより、やまとの称あり、孝徳天皇の大化元年に至り、始て大日本国と号す、古来全国お別ちて汎く東国、西国と雲ひ、又坂東、坂西、関東、関西とも雲ふ、又各地方お称して、吾妻(あづま)、奥羽、北国、中国、四国、九州とも雲へり、畿内は、うちつくにと雲ひ、後に字音お以てきないと称す、畿外に対する称なり、畿外は之お七道に分つ、東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海、即ち是なり、国は後に、私に称して州とも雲へり、神武天皇の朝、始て国造、県主お置き、成務天皇の時、諸国の境堺お定む、孝徳天皇大化改新に至り、唐制に摸倣して、新に国司、郡司お置き、文武天皇大宝の制、国お大、上、中、下の四等に分つ、其国数は、孝謙天皇の時、既に六十二国あり、嵯峨天皇の弘仁十四年、加賀国お置き、淳和天皇の天長元年、多袂島お大隅国に隷属せしむるに及び、六十八国となれり、明治の初年、陸奥、出羽お七国に分ち、又蝦夷お北海道と称して、之お十一国に分ち、琉球国お我が封土と為す、是に於て総て八十五国となる、尋で又台湾、及び樺太半部お割取し、朝鮮お併合して、其疆域の大なる、今日の如きは、未だ曾て有らざる所なり、県は、あがたと雲ふ、後世の郡の類なり、但し上古は、県と国とは相並びたるものにて、県主は、必ずしも国造の下に在らざりき、郡は、こほりと雲ふ、国内に於ける一区域なり、孝徳天皇の大化二年、始て郡お大、中、小の三等に分つ、大宝制令の時、之お改て大、上、中、下、小の五等と為し、国おして之お管せしむ、郷、里は、共にさとヽ訓ず、郡内の一小区域なり、大宝の制、五十戸お以て一里と為し、之お郡の下に置く、元正天皇の霊亀元年に至りて、里お改て郷と為し、郷の下に更に里お置けり、後世多く村名お用いるに至りて、郷里の制漸く廃せり、村は、むらと訓ず、郷内の小区域なれども、郷里の称廃してより直に郡に属せり、地名に好字お用いることは、元明天皇の和銅六年の制にして、風土記お作ることも亦此時に起る、徳川幕府の時、史局お置て、新に地誌お編修せしめしことありと雖も竟に成らず、地図お製することは、天武天皇の時お以て初とす、而して今伝はる所は拾芥抄に載する僧行基の作、最も旧しと雲へり、