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国号考
日本(にほむ)〈比能母登といふ事おも附いふ〉 日本とは、もとより比能母登(ひのもと)といふ号の有しお書る文字にはあらず、異国へ示さむために、ことさらに建られたる号なり、公式令詔書式に、明神御宇大八洲天皇詔旨とあるおば、義解に、用於朝廷大事之辞也といひ、明神御宇日本天皇詔旨とあるおば、以大事宣於蕃国使之辞也、といへるおもて知べし、さて此号お建られたるは、いづれの御代ぞといふに、まづ古事記に此号見えず、又書紀皇極天皇の御巻までに、夜麻登といふに日本とかヽれたるは、後に此紀お撰ばれし時に、改められたる物にして、そのかみの文字にはあらざるお、孝徳天皇即位、大化元年秋七月丁卯朔丙子、高麗百済新羅並遣使進調雲々、巨勢徳大臣詔於高麗使曰、明神御宇日本天皇詔旨雲々と見えたる、これぞ新に日本といふ号お建て、示したまへるはじめなりける、故さき〴〵の詔のさまとは異になむありける、また同二年二月甲午朔戊申、天皇幸宮東門、使蘇我右大臣詔曰、明神御宇日本倭根子天皇、詔於集侍卿等臣連国造伴造及諸百姓雲々、これは異国人に示す詔にはあらざれども、此号お建られて、始めたる詔なるが故に、かく宣て皇朝の人どもにも、新号お示したまへるなり、もし然らざれば、日本倭根子と、倭へ重ねて宣たまへるは、やまと〳〵と、同じことのいたづらに重なるにあらずや、かヽればこの日本といふ号は、孝徳天皇の御世、大化元年にはじめて建られたることいちじるし、然るお世々の識者ども、かの文およく考へざる故に、何れの御世より始まりしとも、えしらざるなり、すべて此孝徳の御世には、年号なども始まり、その外も新に定められつる事ども多かれば、此号の出来しも、いよ〳〵由有ておぼゆるなり、さてこれおもろこしの書どもと引合せて験るに、隋の代までは倭とのみいへるお、唐にいたりて、始めて日本といふことは見えたり、新唐書に、日本古倭奴国也、咸亨元年、遣使賀平高麗、後稍習夏音、悪倭名更号日本、〈◯中略〉といへり、旧唐書には、倭と日本とお別に挙て、日本国者倭国之別種也〈◯中略〉といへり、これらお見るに、此号の出来ていまだいくほどもあらざりしころなる故に、彼国にては、いまださだかには知らざりしなり、大化元年は、唐太宗が世、貞観十九年にあたれるお、かの咸亨元年は、その子高宗が世にて、天智天皇の九年にあたれば、廿五年後なり、その間にも往来は有つれども、なほかの国へは、もとのまヽにて御言は通はされて、日本といふ新号の建しことは、たヾ此方の人のわたくしに語れるなどお、かつ〳〵聞るばかりにぞ有けむ、さて後文武天皇の御代に、粟田朝臣真人お大御使につかはしヽおりよりぞ、かの国へも正しく日本とはなのられける、此朝臣かしこにまかり著たりし時に、いづれの国の御使ぞととはれて、日本国の使なりと名のりしこと、続紀に見え、又かの旧唐書にもさき〴〵の往来のことおば、みな倭国といふ方にしるして、日本国といふ方には、此真人朝臣のまかりけるお始めとしてしるしたり、此時かの国は、武后が世なりき、故或説に此号お、唐武后が時に、かの国よりつけたるごとくにいへるは、ひが事ながら此由なり、さて又三韓の使には、大化元年にすなはち宣知らせたまひしこと、上に書紀お引ていへるがごとくなるお、その国の東国通鑑といふ書に、新羅の文武王十年のところに、倭国更号日本、自言近日所出以為名といへるは、唐の咸亨元年にあたりて、年も文も同じければ、かの唐書おとりて書たる物にて、論にたらず、すべて東国通鑑は、かくさまのうけがたき事のみぞおほかる、日本としもつけたまへる号の意は、万国お御照しまします、日の大御神の生ませる御国といふ意か、又は西蕃諸国より、日の出る方にあたれる意か、此二つの中に、はじめのは殊にことわりにかなへれども、そのかみのすべての趣お思ふに、なほ後の意にてぞ名づけられけむ、かの推古天皇の御世に、日出処天子とのたまひつかはしヽと同じこヽろばへなり、