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国号考
葦原中国(あしはらのなかつくに)〈水穂国おも附いふ〉 葦原の中つ国とは、もと天つ神代に、高天原よりいへる号にして、此御国ながらいへる号にはあらず、さて此号の意は、いと〳〵上つ代には、四方の海べたはこと〴〵く葦原にて、其中に国処は在りて、上方より見下せば、葦原のめぐれる中に見えける故に、高天の原よりかくは名づけたるなり、かれ古事記、書紀に此号はおほく天上にしていふ言にのみ見えたり、心おつけて考ふべし、その中に此御国にていへるも、いと希にはなきにしもあらざれども、そは御孫命の天降坐て後には、此御国にても、もと天上にありて、いひならへる号おもて呼べることも有しよりおこれるなり、さてよもの海辺のこと〴〵に、葦原なりしことは、続後紀に、仁明天皇の四十の御賀に、興福寺の僧等の献れる長歌に、日本乃(ひのもとの)、野馬台能国遠(やまとのくにお)、賀美侶伎能(かみろぎの)、宿那毘古那加(すくなびこなが)、葦菅遠(あしすげお)、殖生志川々(うえおふしつヽ)、国固米(くにかため)、造介牟与理(つくりけむより)雲々とよめる、此書今伝はれる古事どもには見えざれども、かくよめるは、必そのかみ拠ありけむ、さればもと大穴牟遅、少名毘古那二柱の御神の、国造堅めむために、植生し廻らしたまへるなりけり、かくて中昔のころまでも、海の渚には、いづくにも葦の多かりしこと世々の歌どもなどお見てもしるべし、さて此葦原の中つ国てふ号には、くさ〴〵説あれども、皆古の意にかなはず、そのわろき由は、こと〴〵に論はむも、わづらはしければもらしつ、〈◯中略〉 豊(○)また大(○)てふ称辞 葦原中国、秋津島などに、豊てふ言お冠らせて豊葦原中国、豊秋津島といひ、八島、倭などには、大てふ言お冠らせて、大八島、大倭といふ、これらの国号のみにもあらず、凡て豊とも大ともいへる例多き、みな上つ代の称辞なり、然るお大日本などいふ大は、もろこしの国にて、当代の国号おたふとみて、大漢、大唐などいふにならへる物ぞといふ説のあるは、古のことおしらぬ、例のおしあてのみだりごとなり、もし然いはヾ、かの豊葦原などの豊は、いかにとかいはむ、こはかの国にはさらに聞えぬ美称なるものおや、又もろこしにては、王の母お大后とはいふお、皇国の古には、当御代の嫡后お大后と申せりき、これらも、大といふこと、すべてかの国にならへるにあらざる証なり、然るお書紀には、古称おたがへて、大御母おしも、皇太后と記されたる、これぞ彼国にならへるにては有ける、書紀にはかく彼国にならひてかヽれたる事もおほきからに、神代よりありこし事おも、かれと似たるおば、皆ならへるにやとは疑ふなり、抑大てふ美称は大臣、大連などいふたぐひ猶多し、みないと上つ代よりのことにて、大倭といへるも、古事記の景行天皇御段に、熊曾建が詞に、大倭国と見え、また抑徳天皇、孝安天皇、孝霊天皇、孝元天皇などの大御名、又古事記には、意富夜麻登玖邇阿礼比売(おほやまとくにあれひめ)命と、仮字に書る御名さへあるおや、