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国号考
夜麻登(やまと)〈秋津島師木島おも附いふ◯中略〉 秋津島(あきつしま)は、古事記に、大倭帯日子国押人命、〈◯孝安〉坐葛城室之秋津島宮治天下也と見え、書紀にも此御巻に、二年冬十月、遷都於室地、是謂秋津島宮と有て、もと此孝安天皇の都の地名なり、かの神武天皇の、猶如蜻蛉之臀呫と詔へりしは、即此地のことにて、かの大詔より起れる名なり、腋上も銜間丘(ほヽまのおか)も室も、みな相近きところにて、大和国葛上郡なり、さて孝安天皇の百余年久しく敷坐りし京師の名なるから、秋津島倭とつヾけていひならひ、その倭に引れて、つひに天の下の大名にもなれることは、師木島と全同じ例なり、次に委くいふお合せ見べし、然るにかの神武天皇の国状お御覧して、蜻蛉の臀呫せるが如しとのたまへるお、或は天の下のこととし、或は大和一国の事とするから、此秋津島てふ名おも然心得めれども、然にはあらず、国状とあるにつきては、なほ疑ふ人もありぬべけれど、古は後に郡郷などになれるほどの地おも某国といへる、常のことなれば、なにごとかあらむ、さて雄略天皇の吉野に幸行し時に、虻の御腕お咋たるに、蜻蛉飛来て、その虻お咋ける時の大御歌に、手(た)こむらに、虻(あむ)かきつき、其あむお、阿岐豆(あきづ)はやくひ、かくのごと、名に負むと、そらみつ倭の国お、阿岐豆島(あきづしま)と雲、とよませたまひ、それより其地お阿岐豆野と名づけられし事、古事記に見えたり、此御歌の意は、古より此倭国お秋津島といふことは、今かくの如く、其名に負て、蜻蛉が功あらむとてなり、よみたまへるなれば、秋津島の事にはあづからず、然るお書紀には、此御歌の詞、はふ虫も、大君に、まつらふ、女がかたは置む、秋津島倭とあり、是はすなはち女が名におへる、此秋津島倭国に、形おのこしおきて、此地お蜻蛉野と名づけむ、とのたまふ意なるべし、されどこはよくせずば、此時の蜻蛉の功によりて、国名お秋津島と名づけたまへるごと聞えて、まぎれぬべし、さてまた秋津の津は古事記、書紀、万葉など、古書にあまた出たる仮字には皆阿岐豆(あきづ)と濁音の豆おのみ書て、清音の仮字書るは一つもなし、後世に清てよむは訛なり、虫の名も同じ、又この島お洲とも書るにつきて、阿岐豆須ともいふは、ことにひがことなり、洲字は須に用いるはつねのことなれども、秋津洲のとき然いふことは、例もなくことわりもかなはぬことなるおや、さて又海なき地に島といふ名のあることは、志麻とは、もとは必しも海の中ならねども、山川などにまれ、周れる界隈のある地おいふ名なること、始にいへるが如くなれば、此秋津島なども、山のめぐれるおもていふなり、蜻蛉の臀呫せるが如しとのたまへるも、青山のめぐれるさまなるお思ふべし、またそのあたりお室といひしも、さる由にてつけたる名にやあらむ、猶他にも例多し、書紀に、越国お大八洲の一つにとりて、越洲といへるも、海は隔たらねども、彼国は、いづくよりも山お隔てヽ、別に一区なるが如くなればなるべく、筑紫の宇佐お宇佐島とあるも、山川などめぐりて、一区の地なる故なり、又応神天皇の都は、大和国高市郡の軽といふ所なるお、軽島といひ、欽明天皇の都は、師木(しき)といふ所なるお、師木島といへるなども皆同じ、此余にも海なき国々に、某島といふ地名のおほかる、多くは此例にてぞつけつらむ、その中にはかならずいちじるき界限はなき地おも、ことさらに一区としめ定めて、名づけたるも有ぬべし、それもなづくる意は同じ事なりかし、