[p.0026][p.0027]
国号考
夜麻登(やまと)〈秋津島師木島おも附いふ◯中略〉 師木島(しきしま)は、古事記に、天国押波流岐広庭命〈◯欽明〉者、坐師木島大宮治天下也と見え書紀にも此御代の巻に、元年秋七月丙子朔己丑、遷都倭国磯城郡磯城島、仍号為磯城島金刺宮と有て、もと此欽明天皇の都の地名なるお、万葉集の歌どもに、しきしまのやまとの国とよめり、抑かくのごとくしきしまのやまとヽつヾけいへる意は、もとは大和一国おさしてにはあらず、京都おさしてやまとヽはいへるにて、しきしまの都といはむが如し、かの万葉の歌に、やまとには、鳴てか来らむ、よぶこ鳥、とよめるやまとも、殊に京師(みやこ)おさしていへると同じ、又かの秋津島倭とつヾけいふも、もはら同じくて、本は秋津島の京といはむがごとし、さればその秋つしまも、師木島も、共にみな京の名おいへるにて、国の名にはあらず、これらもし一国のことならば、倭の秋津島、倭のしきしまといはでは、ことわりかなはず、さて本はいづれも右のごとく、京師おいへるなれども、かくつヾけなれては、やがて一国の倭にも転じて、秋津島やまとの国とも、しきしまの倭の国ともよめるは、枕詞のごとくにもなれるなり、さてまた転りて万葉十九巻に、立わかれ、君がいまさば、しき島の、人はわれじ、いはひてまたむ、とよめるは、大和国おやがてしき島といへるなり、こはかの奈良お青によし、難波おおしてるとのみいへるに似たり、さてまた倭にひかれて、つひに天の下の大号の如くになれることも、秋津島ともはら同じ、又歌の道おしきしまの道といふは、大号より出て、又転れるものなり、さて此師木島てふ名の起りおとくに、崇神天皇と欽明天皇の二御代の都お兼ていふは誤なり、其故は、すべてかヽることに、古お考へ合せていふは、物しり人のうへのわざにこそ有れ、世間のなべての人は、たヾあとなく、さしあたりたる事よりこそはいひ出る物なれ、古お思ひていふものにはあらず、されば京おしき島といふも、たヾ欽明天皇の御時にいひならへる、当時の京の名お、他京にうつりて後も猶雲るが、おのづからなべての京の称のごとなれるなり、たとへばもろこしにも唐といへるが、後々の代まで、かの国の名になれる、それもたヾ李姓の唐よりいひならへるにこそあれ、古の唐尭の唐おもかねていふにはあらざるがごとく、これも古の崇神天皇の京までお思ひて、いひならへるにはあらず、もしまたはやく崇神天皇の都よりいひ出たりとならば、後の欽明天皇の都までお待べきにあらずかし、