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国号考
倭の字 倭の字は、もともろこしの国よりつけたる名にて、その始めて見えたるは、前漢書地理志に、東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設桴於海、欲居九夷、有る以也夫(ゆえかな)、楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見雲、といへる是なり、その後の書どもにも、みなかく倭人といひ、又はぶきて倭とのみもいへり、さて倭とは、いかなる意にて名づけつるにか、その由はさだかに見えたる事はなけれども、かの漢書に、東夷天性柔順と書出して、有倭人とつらねいへるお思へば、班固が意は、説文に此倭の字の本義お順貌と注したると同じくて、柔順なる故に倭人とはいふと心得たるごとく聞ゆめり、されどそれも字につきてのおしはかりなるべし、また皇国の旧説に、此国之人、昔到彼国、唐人問雲、女国之名称如何、自指東方答雲、和奴国耶雲々(わぬくにやといへり)、和奴(わぬ)は猶言我也、自其後謂之和奴(わぬ)国也、と釈日本紀元々集などに載られたれども、これも信がたき説なり、そのゆえは、まづ和奴国(わぬくに)といふ名は、後漢書にはじめて見えて、倭国之極南界也とあれば、皇国の内の南の方の一国の名なるお、唐書などにこヽろえあやまりて、皇国の旧の大号のごとく書るお、そののちみな此誤りお伝へて、かしこにてもこヽにても、たヾさる事とのみ思ひ居るは、いみじきひがことなり、この事おのれ馭戎概言につばらかに弁へ論へり、されば倭奴(わぬ)は、もとより国名にまれ、又我といふ意にて答へたるにまれ、皇国の内の一国の名なれば、これおもて、大号の倭てふ意お説べきにあらず、又或説に、倭奴国お唐国の音にていへば、於能許(おのこ)にて慇馭廬(おのごろ)島といふ事なりといへるもひがことなり、慇馭廬島(おのごろしま)は、大八洲より先には出来つれども、淡路島のほとりにある一つの小島の名にてこそあれ、神代より天の下の大号にいへることさらになし、然れば皇国人のいはぬ名お、外国の人の知て名づくべき由あらめやは、此説はもと、近き世に神道者といふものヽ、此おのごろ島お、皇国の本号のごと説なせるによりていへるなり、また倭奴国といふはおのごろ島、おのころ島は丈夫(おのこ)島といふ意なりといふ説は、殊にあたらぬ事なり、こは於(お)と遠(お)と音の異なるおだにもしらぬみだりごとぞかし、夜麻登(やまと)といふに、やがて此倭の字おあてヽ書く事は、いと〳〵古へよりのことヽ見えたり、古事記にもみな此字おかき、又書紀にも、日本と書て夜麻登と訓(よむ)事は、神代巻に此雲耶麻騰、と註あれども、倭の字お書るにはかヽる註もなければ、世にあまねく用ひならへることしられたり、すべて文字は、万の物の名も何も、もろこしの国のお借用る例なれば、これもかの国より名づけて書る字お、そのまヽに用ひむ事、さもあるべきわざなり、然るお此字嘉号にあらずといひて、嫌ふ人あれども、字の意はいかにもあれ、皇大御国の号となりては、すなはち嘉号なるおや、さて此倭の字、もろこしより名づけたるは、大号のみにて、畿内のやまとおば皇国人のいへるお聞てかけりとおぼしくて、後漢書巍志などに耶馬台(やまと)、隋書、北史などにも耶摩堆(やまと)といへり、然れども皇国にては、畿内のにも通はして、みな倭の字お用ひたり、