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国号考
和の字 和といふは、皇国にて後に改められたる字なり、さる故に、異国の書に、大号に此字お書ることさらになし、思ふにこれは、古へより倭の字お用ひ来つれども、もと異国よりつけたる名にして、美字にもあらずとしてぞ、同音の好字おえらびて、改められたりけむ、さるに古はたヾ、夜麻登といふ名おのみむねとはして、文字はいかにまれ、仮の物なれば、よきあしきさたにも及ばず、あるまヽに倭の字お用ひ来にしお、やヽ後には、文字の好悪きおもえらばるヽ事になれりしなりけり、さて此和の字の事、上に引る漢書の文、又順貌と注せるなどに、和順などヽもつヾくお合せておもへば、倭と字義も遠からず、また書紀の継体天皇の御巻の詔詞に、日本邕々(やまとやはらぎて)名擅天下雲々とある、邕は雍と通ひて、詩の大雅に雍々といふ註に、鳳凰鳴之和也とも、和之至也ともいへる、又聖徳太子の憲法の首に、以和為貴とある、又もろこしにて雍州といふは、もと王都の国の名なる故に皇国にても後世にこれにならひて、山城国お雍州といふ、此雍字も雍と通ひて、和也といふ註ある、これらみな由あれば、いづれにまれその義お取れたるかとも思はるれど、それまでもあるべからず、すべての事後に考ふれば、おのづから由ある事どもはくさ〴〵いでくる物なり、また子華子てふ書には、太和之国といふこともあれども、これらはさらに由なし、倭おのの和の字に改められつるは、いづれの御代にかと考るに、斎部正通の神代巻口決に、天平勝宝改為大和と見え、拾芥抄にも、天平勝宝年月日改為大和とあり、これらは後世の書なれども、よりどころありげに聞ゆる故に、なほ古書どもお考へ見るに、まづ古事記はさらにもいはず、書紀にも和の字にかけることは見えず、続紀に至りて、はじめて此字にかけること見えたり、これによりて、かの天平勝宝とあるが、妄にもあらざることおかつ〴〵しりぬ、されども然改められたることはしるされず、故なほ委く彼紀お考ふるに、はじめのほどは倭の字おのみ書て、そのあひだには、和の字に書るは一つも見えず、元明天皇の御代、和銅六年五月の大命に、畿内七道諸国郡郷名著好字とあれども、これは改らずと見えて、其後も猶もとのまヽに倭の字なり、さて聖武天皇の御代、天平九年十二月丙寅、改大倭国為大養徳(おほやまと)国、同十九年三月辛卯、改大養徳国依旧為大倭国とあれば、此時もなほ倭の字なりしことしられたり、其後も孝謙天皇の天平勝宝四年十一月乙巳日の下に、以従四位上藤原朝臣永手為大倭守とあるまでは、みな倭字にて、その後天平宝字二年二月己巳日の勅に、はじめて大和国(○○○)と見えたる、これより後は、又みな和の字おのみかヽれたり、これにてまづ、勝宝四年十一月より、宝字二年二月までの間に改められたりとはしられたり、それも何となく和の字お書出せるにはあるべからず、かの養徳と改められし時の例お思へば、此和の字も、かならず詔命にて著られたりけむお、紀にはその事しるし漏されたるなるべし、類聚国史などにも見えざれば、後に写し脱せるにはあらじ、さて又万葉集お考ふるに、十八の巻までには、歌にも詞にも、和の字お書る所はなくして、十九の巻、天平勝宝四年十一月二十五日、新嘗会四宴応詔歌六首の中に、右一首大和国守藤原永手朝臣とある、これ和の字お書る始めなり、又二十の巻に、先太上天皇詔陪従王臣曰、夫諸王卿等宜賦和歌而奏雲々、右天平勝宝五年五月雲々とある、これに始めて和歌とも書り、そも〳〵かの永手朝臣お大倭守とせられしは、上に引る紀の文のごとく、勝宝四年十一月乙巳日にて、乙巳は二日なるに、そこにて猶倭の字おかけると、此万葉に、その同月の二十五日の事に、和の字お書るとお引合せておもへば、まことに天平勝宝四年十一月の、三日より二十四日までのあひだに、改められたるなりけり、さて又大倭宿禰といふ姓は、かの養徳と改められし時も、その字にしたがひて、大養徳宿禰とかヽれたれば、和の字に改まりたる時も、それにしたがふべきわざなるに、宝字元年六月の所までも、なほ倭字おかきて、同年十二月の文より始めて大和宿禰とあり、そのころは既に姓氏の文字なども、私に心にまかせてはかヽず、必おほやけより勅有て、定められし事なれば、国名の和の字に成しとき、此姓の字も、然改むべき勅あるべきに、其後しばしなほ旧のまヽに書しは、此姓の字改むべき勅は、宝字元年に至りて有しなるべし、さて宝字元年の所に、此姓お大和宿禰と書るにて、国名の方は、それよりさきに既に改まりつること、いよ〳〵いちぢるし、すべて続紀には、はじめに倭の字、なかほどはみな倭の字おのみ書て、和と書ることなく、和の字に書き始めて後は、又みな和の字のみにて、倭お書雑へたることはなければ、改められつる年月も、おのづから右のごとくには考へしらるヽなり、然るお田令の中に、大和と書る所あり、又書紀の崇神の御巻にも、和と書る所一つあり、又続紀八の巻にも、二所大和国とかき、和琴ともかき、又万葉集七の巻にも、和琴とかける、これらはみな後に写し誤れるものなり、その前にも後にも、いとおほかるやまとに、みな倭の字おのみ書る中に、いとまれ〳〵に一つ二つ和と書くべき由なければなり、後の世には、心にまかせて通はし書く故に、ただ同じことヽ心得居て、ふと写したがへたるなるべし、又和銅てふ年号もあれども、此和はやまとの義にはあらず、さて上件続紀に出たるは、皆畿内の大和一国の名の字にて、天の下の大号のやまとのさたにはあらず、大号のには、書紀よりして、おほくは日本といふ字お用ひられたりし故に、そのさたには及ばざりしにや、和の字に改まりて後も、畿内の国名ならぬには、なほ倭の字おも廃ずして、すなはち続紀などにも、倭根子天皇などヽかヽれ、その外にもおほく見えたり、しかはあれども、大号も本はかの一国の名よりおこれるに、その本お改められつるうへは、何事にもみな、和の字お用ひむおや宜しとはいふべからむ、