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日本地誌提要
一総国
沿革 皇国上古大八洲といふ、神武天皇都お大倭の橿原に定め、功臣椎根津彦等に地お賜ふて、国造とせしより、疆域日に避け、成務の朝に至り、国境お分ち、其後治化益弘り、国造凡百四十四、推古以降国司お交へ置き、孝徳の朝、始て各州国司お設け、郡司諸吏、多く国造お以て之に任じ、漸く国お省て郡に改む、大宝中、畿内七道の称始て定り、国司限年遷任、治所お国府と称す、嵯峨の朝に至て、大国十三、上国三十五、中国十一、下国九、凡て四等、六十八国、是に於て古制一変して郡県の治となる、昇平日久く、藤原氏権お専にせしより、国司多く京に在て、吏おして代治せしめ、公卿の荘園、皆家人お以地頭とし、殆んど七道に偏く、治体漸変ず、源頼朝府お鎌倉に開き、兵馬の権お執に及て、地お裂て家臣に授け、文治元年、奏請して守護地頭お置て之に補し、往々世襲、国司復た任に趣かず、是に於て始て封建の漸お成、建武中興、功臣お守護とし、国司おして治所に就しむ、足利氏に至て国郡お分ち、家臣お封じて守護と称し、三管領四職以下、皆地お以て子孫に伝へ、正平四年、関東管領お置き、鎌倉に鎮して、八州及び奥羽お統しむ、是に於て形勢終に一変して封建となる、応仁以降天下大乱、群雄諸道に割拠して、互に相呑滅す、織田氏興て、東海、東山、畿内、山陰の地お略定し、豊臣氏之に継て海内お蕩平し、群雄服従、其大者六姓、〈徳川、島津、毛利、上杉、前田、佐竹、〉其次三十余家、慶長五年、関原役畢り、徳川氏諸氏お統率し、子弟功臣お封ずる者数十、其後加削増減一ならず、慶応中、凡二百七十一藩、王政革新、更めて藩お建る者十四、既にして奥羽お分て七国とし、蝦夷お以て北海道と称し、十一国に分ち、明治四年、諸藩お廃して県となし、郡県の治に復す、凡そ五畿七道、七十三国、二京、三府、六鎮、六十県、皇居お東京に定め、開拓使お置て、北海道十一国お経理し、琉球お封じて藩属王国とす、此古今沿革の大略なり、