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地名字音転用例
凡そ諸国の名、又郡郷などの名ども、古へは文字にかヽはらず、正字にまれ借字にまれ、あるべきまヽに、身刺(むさし)、三野(みの)、科野(しなの)、道奥(みちのく)、稲羽(いなば)、針間(はりま)、津島(つしま)などやうに書き、或は上毛野(かみつけの)、下毛野(しもつけの)、多遅麻(たぢま)など、字の数にもかヽはらず、三字などにも書きたりしお、やヽ後になりて字お択ぶこと始まり、又必ず二字に定めて書くことヽはなれるなり〈◯中略〉出雲風土記に、郷名ども、神亀三年改字としるせる多ければ、和銅の後にも、なほつぎ〳〵改められしも有しなるべし、又必二字に定められたるも、延喜式より始まることには非ず、既く奈良朝のほどより、多くは二字に書りと見えたり、さて国郡郷の名、かくの如く好字お択び、必ず二字に書くにつきては、字音お借りて書く名は、尋常の仮字の例にては、二字に約めがたく、字の本音のまヽにては、其名に協へ難きが多き故に、字音おさま〴〵に転じ用ひて、尋常の仮字の例とは、異なるが多きこと、相模の相(さが)、信濃の信(しな)などの如し、かヽるたぐひ皆是れ物々しき字お択びて、必ず二字に約めむために、止む事お得ず、如此ざまに音お転用したる物なり、然るに後の世の人、此義おたどらずして、国郡郷の名どもの、其字音にあたらざることお疑ふ者多し、殊に漢学者などは、たヾ漢籍お見馴れたる心にて、字お本と心得るから、其音に当らざる地名おば、後に訛れるものとして、たとへば相模はもとさうも、信濃はしんのうなりしおさがみ、しなのとは、後に訛れるなりとやうにさへ思ふめり、是いみじきひがことなり、さがみ、しなのは、本よりの名なるに、相模、信濃などの字は、後に塡たるものにて、末なることお弁へざるものなり、