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碩鼠漫筆

県の名義 鈴屋翁の説に、阿賀多(あがた)は上(あが)り田(た)にて、元は畠の事なり〈◯中略〉と見えたるは、いひしらず委しけれど、さはいへども信がたかるべし、其故はなぞといふに、阿賀多は上り田にて、本は畠の事なりとあれども、其証とせし神代巻の高田(あげた)も、万葉の上爾種蒔(あげにた子まき)も、ともに水田にて畠ならねば、夜麻賀多(やまがた)は山阿賀多(あがた)なりとも見ゆれど、其大御歌の前文お見れば、令大座其国之山方地、而献大御飯、是為煮大御羹、採其地之菘菜時雲々とありて、この山方の字面お見れば、山阿賀多も猶強説なりけり、〈後の地名に山県といふがあるも、隻山の畠といふ義にはあらず、猶次下にいふお見るべし、〉かヽれば畠といふ説は、従ひ難くおぼゆるに就てさらに又稽ふるに、こは生方(なりかた)の転訛なるべし、生方は禾穀の生出る方にて、別業お奈里杼古呂(なりどころ)といふ奈里と等しく、此奈里転じて安里可多(ありかた)となり、さて其里(り)おば省けるなるべし、〈座(なり)の里(り)お省けるは、鳥狩、後取、織田、塗師など其他にも例ある、べし、〉但かくいふも亦なほざりにおもはヾ、強説めきても聞ゆべけれど、これは無稽の億説ならず、かく論らふ如くなれば、御県は、御料地なりとはいふべく、高田(あげた)とひとつには混ふまじきものぞ、又万葉集巻七に、青角髪(あおみづら)、依網原(よさ〻はら)、人相鴨(ひとあへるかも)、石走(いしばしる)、淡海県(あふみあがたの)、物語為(ものがたりせむ)、〈此古点はあふみのかたとあれど、今は先輩の訂正に従ふ、〉古今集雑下の端詞に、文屋康秀が三河のざうに成て、あがたみにはえ出たヽじや、といひける返事に雲々、土佐日記にある人あがたの四とせ五とせはてヽ雲々、伊勢物語四十四段に、昔あがたへ行人に、馬のはなむけせむとて雲々などあるおば、領国領所とこヽろうべし、是すなはち生方なり、又この阿賀多に県字お当しは、玉篇に県胡絹切、周礼雲、九夫為井、四井為邑、四邑為丘、四丘為田、四田為県、鄭玄曰、方二十里、又曰、五家為隣、五隣為里、四里為酇、五酇為鄙、五鄙為県、〈以上〉広韻に県郡県也、釈名曰、県懸也、懸於郡也、古作県、楚荘王滅陳為県、県名自此始也雲々、などあるお見るべし、県は田地の名目にて阿賀多には協へる文字なり、〈◯註略〉猶後の地名に山県と雲があるも、山中の生方の義なり、又百寮訓要抄に、諸国の司おば外官ともいひ、あがたとも申なりとあるは、県の官人といふべきお、俗習にて略称せしなり、