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東雅
三地輿
郡こほり 旧事紀に、神武天皇即位の初、功臣に国造県主等お寄し賜ひしとしるされ、其後の代々国(くに)といひ、県(あがた)といふ事は見えたれど、郡といふ事の見えしは、成務天皇四年二月、国郡立長、県邑置首と見え、五年九月、隔山河而分国県、随千陌以定邑里など、日本紀に見えしぞ始なる、其文の如きは、郡と県とお分ちしるされしなど、其代にかヽる文字ありしにはあらず、是はたヾ国史選述の時によりてしるされし所にて、郡といひ、県といひ、其名同じからねど、其実異なるにもあらず、されば国郡県邑などしるされて、又国県邑里ともしるされ、又県の字読てあがたといひしかど、又こほりとも読み、郡県の二字引合て、こほりと読し事も見えたり、〈孝徳記に〉孝徳天皇大化二年正月、畿内の国司お置れ、又凡郡の大中小、その郡司の大領、少領、主政、主帳等の官お定められしよりして、古の県主等の制改りて、これより後代々の令式、皆此時の記によられし所なり、其初県おあがたといひしは分(わかつ)也、其国内の地お分て、県となすお雲ふなり、後に郡おこほりといひしは、韓国の言に出しなり、即今も朝鮮の俗、郡おも県おも并にこほるといふは、即こほりの転語なり、〈或説にこほりとは、小割(こはり)なりと雲ふ、古語にかヽる義あるべしとも思はれず、〉