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東京地学協会報告
国郡沿革考第一回 塚本明毅 総論〈◯中略〉第二期〈◯中略〉 延喜式に載する者、郡五百九十、而して和名抄は郡五百九十二あり、〈按ずるに、延喜式薩摩の阿多お脱し、和名抄別に陸奥の大沼お加ふ、〉其注分つ所の八郡〈和泉の泉南、河内の丹比南北、上野の群馬東西、陸奥の高野、伊達、河沼、筑前の那珂東西、夜須東西、〉お併せて共六百郡たり、霊亀元年置く所の陸奥の閉伊郡、及弘仁二年置く所の同国和我、比縫、斯波三郡、皆延喜式及和名抄に載せざるものは、蓋羈縻郡お以て之お待するならん、〈◯中略〉寛平以還国史お修めず、故に延喜以後分つ所の諸郡、其年月お考ふる能はず、加之国司私に分つて、東西南北となす所の各郡亦頗る多し、〈安芸の安南、安北、佐西佐東は、長元永承の国解に見へ、尾張の海東郡は、治承四年熱田寄進状に出づ、〉今皆其何年にあるお詳にし難し、〈◯中略〉第三期〈◯中略〉洞院左府実熙著す所の拾芥抄、蓋応永以前郡国の制お記せしなるべし、其郡数お記して、六百有四となす、和名抄の郡六百中南北東西の分郡五お去り、五百九十五となし、拾芥抄載する所の陸奥四郡、〈和賀、斯波、稗縫、岩手、〉因幡の八東、備中二郡、〈川上 上房〉美作の吉野、阿波の海部、共に九郡〈此九郡現今存す、故に独り之お取る、〉お加ふる時は、恰も六百有四となる、蓋其南北東西お以て之お分つ者、此数に入らざるなり、拾芥抄載する所、訛謬極めて多く、参拠に供し難しと雖ども、此書の外当時の国郡お記せし者なし、