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東雅
三地輿
村むら むらとは聚也、群黎の聚おいふ也、邑の字読てむらといふ亦同じ、日神、天邑君お定められしと見え、又成務天皇の御時、国郡邑里お定められしなど見えしが如き是也、邑と村と其字同じからねど、其実は異なるにあらず、景行天皇紀に村亦読てふれといふは、むらといふ記の転ぜしなり、亦安閑天皇紀に、竹村の地読て、たかふといふは、猶苧生ぜし地おおふといひ、茅生ぜし地おちふといふが如し、後にたかむらといひしは即是也、村亦読てすきといひ、すくといふが如きは、百済の方言也、また古時人名姓字等に、村主の字見えて、読てすくりといふが如きも、亦百済の方言也、凡姓字に村主と称せしは、皆是大漢三韓等の諸蕃也、それが中に、漢人の如きも、其祖先三韓の地に流寓し、彼土の村主などいふものになりしが、我国に帰化せしに、かへりて姓となりし所なりと見えたり、