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源平盛衰記
二十四
都返僉議事 十一月〈◯治承四年〉廿日、太政入道雲客卿相お被催て、山門の奏状に付て、僉議有べきとて、披露之次に問給けるは、抑遷都事、山門度々奏聞に及、縦衆徒いかに申共、地形の勝劣、諸卿の人望に依べし、旧都と新都と得失甲乙、各無〓飾評定有べしと宣ふ、〈◯中略〉勧修寺宰相宗房卿は、公卿の末座におはしけるが、都還の御事は、山門の奏状に、道理至極せり、争か不被垂叡信、目出かりし都ぞかし、王城鎮守の社々は、四方に光お和げ、霊験殊勝の寺々は、上下に居お占給へり、延暦園城の法水は、本の都に波清(なみきよく)、東大興福の恵灯も、旧にし京に光お益(ます)、四神相応の帝都也、数代自愛の花洛也、五畿七道に便あり、百姓万民も煩なし、勝劣雲泥お隔て、旧新、水火お論ず早速に都還有べきにやと申たりければ、新都お嘆たりける諸卿、苦々しく思はれける上に、入道座お立(たち)、障子おはたと立て、内に入給にけり、さしも執し思給ひつる都お、無代に申つる者哉、入道の腹立あらは也、宗房卿いかなる目にか、あはんずらんと、各舌お巻て、怖恐ける程に、十一月廿一日の朝、俄に都遷有べしとて廻文あり、公卿も殿上人も上下の北面、賤の女、賤の男に至るまで、手おすり、額おつきて悦合へり、山門の訴訟は、昔も今も、大事も小事も不空、いかなる非法非例なれ共、聖代明時必ず御理あり、況此程の道理、入道いかに横紙お破給ふとても、争か靡き給はざるべきなれば、山門の奏状により、宗房の言に付て、其事既に一定也、古郷に残留て、さびしさお歎ける輩も、是お聞ては、あな目出の山門の御事やとて、首お傾(かたむけ)掌お合つヽ、叡山に向てぞ、拝み悦などしける、 両院主上還御事 さても都還の後、宗房卿の一門会合の次に、抑入道のさしも執し思ひ給へる福原の都也、諸人皆新都おほめしに、宰相殿は、何心おはしてか、隻一人謗給けるぞと問ければ、宗房卿宣けるは、君も臣も諸事に於て、思立時は、心おゆるして人に不問、思煩ふ事には必人に問合す、されば入道の心のはやる儘に、都遷とて下給たれ共、人の歎も多て、さすが故郷には及ばず、栖詫給たる折節、山門の訴訟あり、人のいへかし都帰せんと思ふ心の内あらば也と推量て、角は申たりとぞいはれける、ゆヽしくかしこくぞ、思申給たりける、