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源平盛衰記
十六
遷都附将軍塚附司天台事 治承四年五月廿九日には、都遷あるべき由、有其沙汰、来月三日、福原へ行幸〈◯安徳〉と被定仰下けり日比も猿荒増の事ありと私語けれ共、指(さし)もはやと思ける程に、既に被仰下ければ、京中の貴賤是非に迷ひ、周章騒つヽ、更にうつヽとは覚えず、兼ては、六月三日と有披露しに、俄に二日に被引上ける間、供奉の人々、上下周章騒て、取物も不取敢、東関の雲の夕、西海の波の暁、仮寝の床の草枕、一夜の名残も惜ければ、跡に心は留りて、思お残す事ぞかし、久く比京に住馴て、始て旅だヽん事巻ければ、外人には世に恐ていはざりけれ共、親き族は寄合て、額お合て泣悲、何なるべし共覚子ば、各袖おぞ絞ける、二日に既に行幸あり、入道〈◯平清盛〉の年来執し通ひ給ひける所なるに依て也、中宮〈◯平徳子〉一院〈◯後白河〉新院〈◯高倉〉摂政殿〈◯藤原基通〉お奉始、公卿、殿上人被供奉、三日と有披露だにも忙かりしに、今一日引上られける間、御伴の上下いとヾ周章騒、取物も不取敢、帝王の稚(いとけなく)御座には、后こそ同輿には召に、是は御乳母の平大納言時忠卿の北方、帥の内侍と申ぞ被参ける、先例なき事也と、人欺申けり、〈◯中略〉新都行幸の供奉に参ける人の、旧都の柱に書つけたりけるは、 百年およかへり迄に過こしに愛宕の里は荒や果なん、行幸既にならせ給ければ、諸卿已下衛府諸司供奉せり、何者の態なりけるにや、東寺の門の道ばたに、札お立たり、 咲出る花の都おふり捨て風ふく原の末ぞあやうき、行幸の御門出に、いま〳〵しくぞ見えし、