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古事記伝
三十二
葛野は、〈◯中略〉垂仁紀お引て雲る如く、古は乙訓のあたりおも、葛野と雲しことあれば、なほ葛野、乙訓、紀伊三郡にわたりて、其平原なる地お、広くすべて雲し名なるべし、〈延暦十三年十月の詔に、今京の事おも、葛野乃大宮地とあり、〉されば宇遅より望給ふこと宜なり、〈或説に、此の葛野は、久世郡なる富野村の旧名なり、葛野郡とは別なりと雲るは、宇治より葛野郡までは遠ければ、望賜ふべきに非ずと思ふから、御歌のもゝちだるやにはとある詞に依て、富野てふ名に附会(ひきつけ)たるものなるべし、そは葛野と雲は、古には広き名なりしことお知ざるからのひがことなり、◯中略〉知婆能(ちばの)は、契冲雲く、千葉之(ちばの)なり、葛は葉の繁き物なれば、其枕詞なり、下総国に千葉郡あるも、さる意以て名けたるか、加豆怒袁美礼婆(かづぬおみれば)は、葛野お見ればなり、契冲雲、加豆(かづ)は加豆良(かづら)の下略なり、