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諸国名義考
上畿内
河内 和名抄に、河内〈加不知(かふち)、国府在志紀郡、〉古事記及国造本紀には大河内(おほがふち)とあり、姓氏録には凡河内(おほしかふち)といふ氏もあり、名義は古事記伝に、倭の京にて山城の大川の此方にある国なればなり、もとは大河内と雲しお、諸国の名必二字に定られしより、大おば除きつらむ雲々とあり、この意なるべし、万葉集に滝津河内(たぎつかふち)雲々とよめるも、川のこなたおいふなるべし、河内志に、以皇都在和州、大河摎州西北故名、とある大河も、山城の淀川なるべし、日本書紀仁徳天皇十一年の紀に、河内国茨田堤お造られしこと見えて、延喜神名式に、河内国茨田郡堤根神社などあり、姓氏録河内皇別に、茨田宿禰、彦八井耳命之後、男野見宿禰、仁徳天皇御代造茨田堤、又仁明天皇嘉祥元年、令築茨田堤とあり、さて畿内志に、長柄川清河第二支上古水道、唯是一川横流不一、仁徳天皇疏導堀江延暦中通三国川、然猶汎濫不已、疏柴島北、故水道漏水勢于三国川、名曰中津川、今二重堤即此、後浚名柄川、塞此水路、童謡曰、摂津国能(つのくにの)、中津河原袁(なかつがはらお)、瀬岐加禰氐(せきかねて)雲々とあり、また続日本紀、聖武天皇天平十三年夏四月辛丑雲々、撿挍河内与摂津相争河堤所、また桓武天皇延暦七年三月甲子雲々、河内摂津両国之堺、堀川築堤、自荒陵南導河内川、西通於海雲々などあり、また神護景雲三年、河内職お置れしことなどもあれば、川より負し国名なることうつなし、