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続応仁後記

畿内近国一揆所々騒動事 細川晴元は淡路国より帰帆して、同〈◯天文二年〉四月六日の夜、池田の城に落著ける、斯にて各々評議して、堺庄お取返さんと、多勢お催して、同月廿九日に打立、堺の庄お攻ける程に、一向門徒等悉攻破られ、本願寺上人は堺庄お落去て、摂州西成郡石山の庄(○○○○)に居住せらる、此石山は元より大河帯の如く岡お巻て、要害堅固の勝地也、しかも海陸自由にして、繁昌の地なるが故に、此所に伽藍お建て、上人即ち安居し給ふ、今の大坂と雲は此地也(○○○○○○○○)、右京大夫晴元は元の如く、堺の庄え入り替て斯に居住し、人数お催し、武士には木沢左京亮等、僧には又日蓮宗の僧俗数多勢揃し同き五月五日大坂え押寄せ攻ると雲へ共、元より堅固の要害に防ぐ兵多して、攻落す事成難ければ、漸当分の和議お扱ひ、同き廿日に寄手の諸勢等悉帰陣しけり、