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梅松論

建武三年二月朔日、猶都に責入べき其沙汰有といへども、退て功おなすは武略の道なりとて、細川の人々赤松以下西国の輩お案内者として申されけるは先御陣お摂津の国兵庫(○○)の島にうつされて、当所の船お点じて、兵粮等人馬の息おつがせて、諸国の御方に志お同して、同時に都に責入べしとて、三草山通に播磨のいなみ野に出て同二月三日、兵庫の島に御著有処に、赤松入道円心参て申けるは、当所は要害の地にあらず、御座痛敷候、両大将おば円心が摩耶の城にうつし奉り、軍勢は当津に陣お取べし、兵庫と摩耶の間五十町のよし申所に、〈◯中略〉其時円心、当所は要害にあらざるに依て、愚意の及所お申上候計也、更に諸国の事思ひもよらず、遠方の聞え猶大切なる間、縦城に御座候共、御出有べきにてこそ候べけれと、赤松此儀に同じければ、当所御陣にさだめらる、