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応仁後記

四国勢攻上摂州合戦事附前公方家御逝去事 高国〈◯細川〉先づ五百余騎お摂州へ差下す、此勢万代の庄(○○○○)に陣取たるに、四国勢も不寄来、空く日数お送りければ、同〈◯永正八年〉七月十三日、京方の兵、深井へ押寄せ、軽々敷合戦お始けるに、澄元勢の横合に駈立られて、京方悉打負、同国堺の庄へ引退く、勝に乗て澄元勢は中島辺迄攻入たり、摂州兵庫の津へは、細川淡路守成春兵船お著け、押上つて難波の庄(○○○○)まで攻上れば、高国方の勇士河原林対馬守正頼同国蘆屋の庄(○○○○)上なる鷹尾の城に楯籠て、是お防ぎ留んとす、〈◯中略〉 三好希雲居士降参自害事 細川高国没落しければ、同〈◯永正十七年〉二月廿七日、三好入道希雲居士、京都お差て攻上る、威勢権柄あたりお払て見へにける、同三月十六日、細川右京大夫澄元神呪寺の陣お払て、伊丹の庄(○○○○)え移りければ、摂津国より京都まで、軍兵巷に満々たり、