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勢陽五鈴遺響
首上
建置総論 伊勢国は旧十九郡お所置にして、四郡お割て後に伊賀国お置処なり、〈◯中略〉又武烈天皇朝に二郡お割て志摩国お分置、今答志英虞の二郡なり、本州に隷属する処は、其余十三郡にして、所謂桑名、員弁、朝明、三重、鈴鹿、河曲、菴芸、安濃、一志、飯高、飯野、多気、度会是なり、〈◯中略〉俗諺に本郡十三管に錦島多度お増して十五郡に作るあり、延喜中既に十三管に載る時は、其本拠は誣難し、十二管に作り、及錦島多度御座の三処お増して十五管に塡つるは、錦島旧昔は本州の所隷にして、今紀伊州牟婁郡に属せり、多度は本州桑名郡所属にして今然り、即多度村にして稍く一邑の名に遺れり、憶ふに錦島は、今錦浦と称して多度に同く、一邑の遺存する処と雲へども、本州度会郡南海瀕は、旧時は錦島の名お総裁して一郡の名とし、或は志摩州に隷し、今紀州に属するが如し、多度も然り、旧は多度山の際畔は多度の名お総裁して、一郡の名にも及べし、今方俗桑名郡お横の郡と称し、或多度郡とも呼ぶに相同じ、横の謂は員弁郡に対して其縦に所置に拠れり、是各私称にして公するに非ず、然れども旧時に称呼せし処の遺習なり、又御座島お増加するは其徴お得ず、本州に其地名なし、志摩州英虞郡にあり、本州度会郡南海に邇し、億断するに、志摩旧昔は本州の隷属なり、故に其本郡は十三管にして、或は時世に応じ、十二或十五に増減して所置なりと知べし、