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紀伊国昔時国界弁
本国奥熊野の国堺、今は伊勢国と隣りて、二江村錦浦お極とすれども、古くは志摩国とならびて、国界も大にたがへり、今の国界は天正年中以来のことなり、そは寛永十九年の記に雲、紀州と勢州東の堺目、長島の東、荷坂峠より南は、二鬼島浦の近所竪け崎、西は曾根村まで、通り道十一里五町、里数合て四十け村、昔は志摩国英虞郡の由なれども、六十余年以前、堀内安房守時代より、紀州牟婁郡の中になりたる由申傅ふとあり、寛永十九年より六十余年已前は、天正十年已前なり、〈◯中略〉されば古くは楯け崎の山通りお限り、曾根浦の所謂、曾根太郎、曾禰次郎の峠ぞ国界なりける、此西奥は、山深くして外に道なし、さて此界までは、旧来伊勢の神領にて、国は志摩国なれども、多気の北畠家、勢ひ強大にて、大方其旗下に附たりしお、後に錦浦までは堀内家へ責取たりしより、紀の国に入、かなたは北畠に随ひて、伊勢国度会郡の内になりて、つひに志摩国と紀伊国とは、間隔りけるなり、古き日本の総図には、紀伊国、志摩国とつヾきて、伊勢の南辺に海辺ある事なし