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東京地学協会報告
国郡沿革考第二回 塚本明毅 志摩 現今志摩の地、田甫合せて一千七百五十八町に過ぎず、此の如き扁狭の地お建て一国となす事、甚だ疑ふべしとなす、因て史誌お考へ、故郷お徴し、始て其州境の大変革あるお知れり、和名抄曰、田百二十四町九十四歩、粒総千七百斛、正籾千二百石、救急料五百石、拾芥抄曰、田四千九百十七町、按ずるに、米五升は一束より之お得、千七百斛、即ち三万四千束なり、一段稲五十束お得るの制に従へば、田一百二十四町の獲稲、六万二千束に過ぎず、一町の租禾二十二束の制に拠るときは、三万四千束お収むるの田は、一千五百四十五町の地なり、蓋和名抄百字の上、一千五百の字お脱せしなるべし、後世に至り増加して四千九百十七町の田お得る、故に拾芥抄の記する所此の如し、是此州境の変遷せる一証なり、紀伊続風土記の説に、紀伊国牟婁郡の東北、曾根庄以東古本(このもと)長島の地、古志摩国に属す、天正中新宮の堀内安房守氏喜、長島城お取りしより後、永く紀伊に属すと雲、因て相賀庄古の本村庄司氏の所蔵古文書数通お引て拠となす、今其一二通お掲出す、 下志摩国木本御厨百姓等、可令早以息長吉守為下司職事、 右雲々〈下文略之〉 寛喜三年十一月十四日 地頭弾正忠源判 下志摩国長島並合賀木本御厨内定補予所職事 沙弥実意 右以人為彼職、恒例臨時課役等、無解怠可致沙汰之状如件、庄官百姓等宜承知、敢勿違失、故下、 弘安九年七月日 公文 阿闍黎判 右文中木本、今古の本に作る、古本村現存す、合賀(あふが)後相賀に作る、相賀庄は、上里、中里、河内、船津、小浦、矢口等諸村是なり、今皆紀伊牟婁郡に属す、此其州境の変遷して紀伊に入る二証なり、和名抄英虞郡の下に甲賀、〈今村存す〉名錐、〈今波切村存〉船越、道潟、〈原本誤て道浮に作る、今神鳳抄に従て之お攺む、〉芳草、二色、余戸、神戸とあり、今波切村の西南二十四五町に船越村あれども甚だ波切村に近きて、一郷となすべき地にあらず、今伊勢の度会郡船越村は、甲賀村より西の方凡五里お隔つ、此即ち船越郷なり、其西南凡三里半に当りて、道方村あり、即ち道潟郷なり、其西南凡五里余にして、紀伊の牟婁郡錦浦あり、即ち二色郷なり、同郡古の本尾鷲の地は、即ち余戸神戸ならんと、紀伊続風土記に弁じたり、芳草独り其遺名なしと雖も、道方と長島の間、一郷お容るべき地あり、古和村是なり、此お以て芳草郷となす時は、善く和名抄の順序にも合へり、然る時は、英虞郡の古郷、皆明晰にして、伊勢に入るもの三郷、紀伊に入るもの三郷なり、此其州境の変遷お徴すべき三証也、〈◯註略〉又伊勢国船越村の西方に伊勢路村あり、道方村の西にも同名の地あり、是伊勢に通ずる路なる故に此名あるなり伊賀国阿保村にも伊勢地村あり、伊勢の一志郡垣内村に通ずる路なり若し此地古より伊勢国ならば、何ぞ此名称あらん、此其州境の変遷お徴すべき四証なり、又伊勢国度会郡の古郷名お按ずるに、其十三郷皆歴然明晰にして、皆北方にあり、其南方の地は、一の陽田(ひなた)郷〈今日向村〉あるのみ、此其南方沿海の地、古伊勢に属せざる一証なり、今其地勢お按ずるに、朝熊山の山脈、西南に奔り東宮山に至り、自ら伊勢の地と限り、以て今の紀伊の牟婁郡八鬼山に至る、〈今志摩の西境より此に至る凡十七里余〉此古の志摩国たる事疑お容るべからず、