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尾張志
この尾張国お経営ありし国霊神、及其継々に国主と坐しはいかなる神とも、伝記せる書の、今遺らねば知るべき由なけれど、もしくは尾張氏の遠祖等などにてもあらむか、尾張氏は、天火明命の子孫にて、はじめは大和国葛城に住居たる地、高尾張といひしよし也、その同族の別れて、この尾張に下り来て住るが、世々経たる後に、尾張といふ姓お賜へり、されば尾張といふも、高尾張といふも、本はひとつにて別ならざりし也、其故縁は、三代実録〈九巻に〉貞観六年八月八日、尾張国海部郡人治部少録従六位上甚目連公宗氏、〈甚目の二字、今本に其目と誤れり、古本によりて攺む、海東郡なる甚目寺は、此氏人の建たる寺にて、其〉〈村、即本居の地也、此処に今も甚目といふ家三家あるは、即この同族の氏人なり、〉尾張医師甚目連公冬雄等、同族十六人賜姓高尾張宿禰、天孫火明命之後也と、見えたるにてあきらけし、扠尾張氏の世系は、旧事紀天孫本紀に、始祖お天照国照彦天明櫛玉饒速日尊、亦名天火明命〈実は天火明命なるお、饒速日命の亦の名として、かく同神にしたる説は、上にいふがごとし、〉として、其子天香語山命、其子天村雲命、亦名天五多底、其子天忍人命、其子天戸米命、其子建斗米命、其子建宇那比命、其子建諸隅命、其子倭得玉彦命、亦名市大稲日命、其子弟彦命、其子淡夜別命、其子乎止与命、〈国造本紀に、尾張国造は、志賀高穴穂朝、以天別天火明命十世孫小止与命、定賜国造と見え、亦天孫本紀この命の条下に、尾張大印岐女子、真敷刀俾為妻生一男などもあり、かゝれば古事記伝に、この命や尾張の国に、此氏人の住しはじめ也けむとあるも、げにさる事也、式帳に見えたる、愛智郡上知我麻神社は、此命お祭るといへり、又美夜受比売命は、この命の御むすめ也、〉其子建稲種命、〈此命の御名は、古事記に建伊那陀宿禰とあるによりて然よむべくおぼゆ、日本武尊の東国お討玉へる時、供奉に従奉りて、駿河の海にて身まかり玉ひき、〉其子尻調根命、〈この命の尻調二字お、旧事紀に尻納、または尾綱ともかけるに見なれて、古事記伝及荏野冊子に、尻綱根命とし、熱田尊命記集説、本国帳集説、尾張式内神社考証等には、尾綱根命とかけり、こは皆旧事紀今本の誤字に心づかざりし誤なり、古事記に、尾張連之祖伊那陀宿禰之女、志理都紀斗売と見え、姓氏録に若犬養宿禰、火明命十六世孫、尻調根命之後也とあるによりてあらためつ、〉其子尾治弟彦連、其子尾治金連など、已下継々に皆尾治某連とあり、〈続紀の文武紀にも、尾治連若子麻呂牛麻呂などあり、尾治といふ文字用は、当時の書ざまなるべし、〉また尻調根命の条に、品太天皇御世、賜尾張連姓とあれば、始め乎止与命も、国造の如くにて尾張に住るが〈たゞし此氏人の、葛城よりはじめて尾張に下り住しは、此命より今すこし已前ならむとおもふよしあれど、決ては言がたし、又日本武尊の下来坐し時に、既に此国にこの氏人の有つるお思ひて、国造に任ぜられしことの、志賀高穴穂朝とあるは、時代たがへりと、古事記伝に言たれど、必国造に任ぜられて、其国に下るにはあらず、もとより本居の其国人お、其国造に任じ玉へるぞ大方の例なる、されば乎止与命も、はやくより此国人なりつらむお、志賀穴穂朝に至りて、国造にめされしなるべし、〉其孫尻調根命に至りて、尾張連といふ姓お玉ひし也、かくて乎止与命の子孫、世々継々に広ごりて、国造及郡司、大領、小領などにもなりて、国中諸郷に住り、〈熱田大宮司千秋家の遠祖、及神官田島馬場などいふ家も、並此尾張氏也、〉其住処の明に物に見えたるは、熱田縁起に、日本武尊雲々、到尾張国愛智郡時、稲種公啓曰、当郡氷上邑有桑梓之地、伏請大王税駕息之とある氷上〈今知多郡に属る大高村是なり〉おはじめ、中島郡小塞〈今葉栗郡なる尾関村也、延暦元年十二月、内掃部正外従五位下小塞宿禰弓張に、尾張姓お賜へる事、続紀に見えたり、〉海部郡甚目など、其余も猶あるべし、また山田郡小針、春日井郡小針、〈今白山村田地の字に遺れり、小針とかきてこばりといふは後世の転誤なり、〉山田郡尾張戸、〈神名式に、尾張戸神社とある是也、戸は部の借字にて、尾張部なり、此社お俗に当国明神と称し、其社地お当国山といふも、是尾張山といふ意也、此地今は水野村につけり、和名抄に、信濃国水内郡尾張とあるお、乎波利倍と註せるは、此処の同例、部は群の意にて、党おさしていふ名也、〉丹羽郡二宮村なる尾張〈今田地の字にあり〉などいふ地は、並尾張氏の住居たる事あきらけし、〈住りし時代の新古あり、山田郡なる小針は、神護景雲の比なる事、続紀に見えて、上に引る如く、二宮なる尾張は、やゝ後にて、左衛門尉尾張俊村、同俊秀等や住けむとおもふよしあり、そは寛元の頃にて、仮名お重松といへり、今二宮神主重松と称するは、この同族の子孫なるべし、〉