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尾張志
海西郡(○○○) 当郡は此国の西南の極に属る地にて、東西は一里ばかり、南北は七里ばかりあり、地形少し曲りて張れる弓に似たり、東は海東郡につヾき、北は中島郡に接はる、西は大河お隔てヽ美濃国海西郡お境とし、〈是はもと此尾張国内なりしお、天正年中に木曾川お境として、葉栗、中島、海西と三郡ともに、川向お美濃に属られたるによりて、今は美濃国にも彼三郡あり、されど是は、本国の郡名にて、彼国のもとよりの郡名にあらず、是は豊臣家のはからひなり、〉南は海にて、伊勢国桑名郡に並べり、延喜式尾張国縁海郡〈こは此国の郡名お挙たる部にはあらず〉といふ名目見えたるは、海辺の地おさしてかりにいへるさまにて、本国八郡の正しき郡名にはあらず、八郡の郡名は、和名抄及延喜民部式に見えたるぞ正しき、かの八郡の中に海部郡とあるは、今この海東海西と二郡に分れたる本基也、其わかれて二郡と建られたるはいつばかりなりけむ、定かならず、されども頼朝将軍の熱田宮の寄進状に、治承四年八月雲々、海東郡といふ名目見えたれば、治承よりも以前なる事はしられたり、