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尾張志
古今のうつりかはり 凡六国史おはじめ、和名類聚抄、延喜式、その外もろ〳〵の古記録どもに、皆中島(○○)とかきて、更に外の文字お用ひたる例なし、参河国猿投神社の所蔵なりしといへる尾張国古図に、南の海の中に一箇の島おかきて、中島としるせり、いと古き世にはさもありしなるべし、吉蘇川墨俣川などの末の幾派にもわかれて海におつるあたりは、おのづから島となりて、今海東郡沖の島村、馬島村のごとき地も、海中の小島なりしが、年歴おふるまヽに、川上より砂土流れ来て、地つヾきとなり、延喜式和名抄などの頃には、まさしく郡となりしかもはかりがたし、かヽればかの尾張の古図も、ひたぶるに偽作ともいひがたきにや、近年諸桑村の地水より、古代の船の大きやかなるお堀出しつるにても考ふべし、信濃国の川中島などのごとき地、諸国に例多くみな中島と呼り、中島宮縁起に、むかし倭姫命、八つ節の竹の杖お四つに折て、四方に投給ひしが、八つの竿竹と生たりし、そこお御園といひ、其四隅のうちお中国とよびし、是中島の郡名の起れるもとなるよし記したれど、附会甚しくうけがたし、此地京都より当国の入口にて近ければにや、むかしの国府館も、国分寺、国分尼寺、学校などもありて、いとおもたヾしき郡なりしが、斯波氏の守護職たりし頃より、清須お城地とし、其後今の名古屋お府城とし給ひしかば、道隔りて片田舎となれり、天正十二年、当郡のうち三十四村美濃に属きし事、葉栗郡の条にいへるがごとし、