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尾張志
古今のうつりかはり 和名類聚抄、延喜式おはじめ、古書どもにみな葉栗郡とかき、羽栗と書るもまれには見えたり、羽栗とは熟字の正しからぬにやとおもへど、其例なきにもあらず、参河国額田郡に羽栗村あり、むかしは墨俣川、又厚見郡の堺川おもて西北の堺としたりしお、天正十二年、秀吉公のはからひにて、起川お国ざかひにあらため、川西の村々お美濃に属られたり、その美濃の地は今羽栗郡とかけり、偖織田信雄公の尾張お領知有しかば、其地おせばめむ為に、かく国境お改られしといふ人あれど、さにはあらず、むかしより墨俣川お東西わかれの切所とし、京方墨俣お破らるれば、必宇治勢多にもふせぎ得ずして敗軍となり、又関東方墨俣川お引退けば、起矢矧お防得ず、かならずまけ軍となるが多ければ、信雄公に与力し給へる徳川公の強兵お懼れ、かくはからはれし事疑なし、