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尾張志
むかし今のあるやう 昔は此郡おかすかべといひて、愛智、山田、春部、丹羽、葉栗、中島、海部、智多お尾張の八郡といひ来りしが、いつの頃にかありけむ、海部郡おわかちて海東海西の二郡とし、〈治承四年に書る頼朝将軍の熱田寄附状に、海東郡といふ事見えたれば、是よりさきに東西二郡にわけられたる事はしられたり、〉山田郡お廃して、其地お多くかすかべの郡に合せ、また愛智郡にも属たりしお、いつとなくかすがいといひならひて、文字も今のごとく書替しなり、今山田荘といへる地は、皆いにしへ山田郡に属し村里也、三代実録貞観十九年、但馬国獲白雉、尾張国樹連理雲々、是等の佳瑞によりて元慶と改元ありし詔に、宜復尾張国百姓当年徭役、春部郡免当年之庸としるし、和名類聚抄に春部〈加須我陪〉とあるおはじめ、延喜民部式、塵添壒囊抄等の古き書どもに、多くは春部とかけり、又延喜神名式、拾芥抄、梅花無尽蔵、新撰類聚往来等に春日部と、日文字お添て書るもあり、三国伝記、また三の丸天王の拝殿にかけたる元亀元年の鰐口の銘、同三年に奉納したる熱田の御宝物の天満宮の画幅等に春日部とかける類も少からず、又今の文字お用る事も、ふるく四五百年より以往の事にて、大須の真福寺に所蔵せる十住心論聞書の終に、応永十六歳己丑、尾州春日井郡雲々と見えたり、