[p.0506][p.0507]
尾張志
古今のさま 和名抄延喜式おはじめ、万葉集等の古書どもに、みな智多とかきて、外の文字お用ひたる例なし、里老の雲伝へに、むかし菅相丞筑紫に遷されさせ給ひ、其三男英比麻呂当郡にさすらへ給ひしが、其子五歳の時、この地に勅使お下されし事ありけるに、出むかひ腰おかヾめて会釈ありければ、勅使口ずさみに、おさな心にかヾみこそすれといひかけられ、たり、其子とりあへず、英比(えび)の子は生るヽよりも親に似て、とつけたまひければ、勅使帰洛して、其趣お奏聞ありけるに、帝感じ給ひて、其地に生るヽものは智恵多し、智多郡と名づくべしと仰られ、其住居の地十六村お英比荘と名づけて賜ひしとぞ、是久松氏の祖のよしいへりと、衣浦千鳥集といふものに書たれど、此郡名は、その比よりはるかむかしより呼びしなり、日本後紀に、延暦廿四年七月丙子、尾張国智多郡地十三町、賜中納言従三位藤原朝臣内麻呂とも見えたり、その里老の伝への附会なること知るべし、されども菅公の御子の当郡に住給ひ、其裔孫地士となり、久松氏と称せしことは実事にて、久松の家譜等にも然いへり、慶長六年、性高院君当国拝領あらせられし時は、この智多郡は除きて七郡なりしが、同十一年智多郡お御加増あらせられて、継て源敬公拝領し給へり、