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尾張志
名古屋(○○○)の事 此名古屋と呼地は、愛智郡のうち、北の極によりて、旧は山田郡に隣れる一村里なりしが、今は四至いと広く、豊饒繁栄の一都会となれり、東の方は古井村、杉村、大曾根村に宣り、南は前津小林村、広井村、日置村、古渡村に続き、西は中野高畠村、押切村、栄村、枇杷島村に至り、北は田幡村、西志賀村、児玉村おかぎりとせり、此内東西縦横の坊巷、甲乙大小の道路連綿として、神社寺院たち交り、士農工商の家々軒おならべ甍おつらねたる、その数いくばくといふことおしらず、御城の西十町ばかりに名古屋村あり、是此地の、旧邑にして、上にいはゆる四至の広き大名となれる本所なり、さてこの名古屋といふ地名は、何ごろより呼そめしにか定かならねども、大須真福寺の蔵書のうち、貞治三年にかけるものに、尾張国那古野荘(○○○○)安養寺〈今の天王坊〉と記したるおはじめにて、応安六年応永十一年など書るものに、並那古野とあり、熱田宮神宝の刀の彫文字、大永二年八月雲々とあるには、今の如く名古屋とかけり、名古屋と書事は、寛永已後の定り也、凡て那古野、名古屋など三字にかくは仮名書なれば、いづれにてもあるべく、さま〴〵心々にものしたるも、古風の存れるならはし也、