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尾張志
熱田(○○) 往古は郷名村名にてもなく、たヾ神宮御名よりうつりて里の名ともなりしなり、其故は日本書紀神代巻の八岐大蛇退治の条の一書に、其蛇飲酒而睡、素盞烏尊抜剣斬之、至斬尾時、剣刃少欠、割而視之、則剣在尾中、是号草剃剣、今在尾張国吾湯市村、即熱田祝部所掌之神是也としるし、かくあゆち村といひ、熱田の祝部とあるにて知るべし、こヽぞ郡中の本処にて、広く吾湯市村といひしお、成務天皇の御時、諸国の郡県お定給ひしかば、村名お郡名におよぼして、愛智郡とはなりし也、旧事紀、古事記、六国史おはじめ、普く古書にみな熱田とかけるゆえよしは、寛平二年十月十五日書る尾張守藤原村椙朝臣が熱田縁起に、宮簀媛命のはからひにて、社の地お占ひ、草剃の神剣お遷し奉らむと衆議ありて、その社の地お定られしに、其処に楓樹一株ありしが、自然に炎焼して、その樹水田の中へ倒れ入、光焰不消して、其田あつかりければ、熱田と名づけしよし記したるによれり、この説御鎮座の旧地お考ふるに、少したがへるふしあれど、尾張風土記の古説なればいかヾはせむ、先その旨に随ひつ、和名類聚抄には、諸国の郷名のうちに、文字お替へて厚田と書り、さて武家執政の世となりては、京都より鎌倉へ通ふ道筋にて、今の如く旅宿もありしよし、吾妻鏡、源平盛衰記等おはじめ、古軍書紀行などに見えたれど、今の繁昌のさまには及ばざりし也、当所地蔵院の文正元年五月朔日の古証文に、今道東脇等に住みしと覚しき人の名見えたれど、皆新地なるべく、享禄の宮図にも、南の方は陸地至て少く、伝馬町のあたりは船のつく浜ばたのやうにおしはからる、されば三四百年已前までは家並は多からず、其後追々海へ築出し、町家どもなりしかども、二百年以前には家作も麁略に、旅宿などもはか〴〵しからずありしにや、明暦二年に印行したる東海道の道中記といふものに、五十三駅のよしあしおことわりて、なるみ宿悪し、みや宿悪しと書たり、今おもて見れば、其五十三駅のうち、此宮宿にまされる駅はさらになきにて、古今の変革お知るべし、