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参河国古蹟考

宝飯〈穂国府 民部式廿二、神名式九、拾芥抄四同、民部式古本宝飫郡、〉 古事記〈中の廿四丁〉開化天皇条に、朝廷別王者三川之穂別之祖、 国造本紀、〈十の四丁〉穂国造、泊瀬朝倉以生江臣祖葛城襲津彦命四世孫兎上足尼定賜国造なり、〈宝飫郡兎足神社は兎上足尼お祀ると社説に雲り、委くは官社私考上巻に雲り、〉これ其本にて、旧くは穂郡なりけむお、大人等の雲れたる如く、民部式〈廿二の十一丁〉凡諸国部内郡里等名並用二字必取嘉名とある御制に依て、其一音の名は、二字に書くに足ざりし故、其響音の字お加て、木国お紀伊、衣郡お穎娃(ええ)、襲(そ)国お囎唹など書る例に依て、宝飫(ほお)と二字になせしなり、此例に依らば、ほおと唱へて可ならん、扶桑略記〈廿九の廿四丁〉宝飯郡、卜部兼敦の諸社根元記に宝飫郡に作れり、然るお後に飫お飯に誤り、唱おもほいと誤りしなり、此抄〈◯倭名類聚抄〉の比は、ほの郡と唱へたりと見えて、宝飯と記しながら、唱注には穂と記せり、伴主雲、日本紀に飫お飯に作る多し、五音海篇に、飫与飯同とありと雲り、飫お飯と誤りし例は、当抄大和国十市郡飯富あり、神名式に多に作り、遠江国磐田郡飯宝は、残風土記飫宝と作り、万葉八に大乃浦あり、上総国望陀郡飯富、〈於布〉神名式の古本に飫富と作り、〈◯中略〉続日本後紀〈八の廿九丁〉宝飯郡とあるも、飫お誤りしなるべし、当郡今宝飯郡と書てほいと唱ふ、高五万二千二百六十石余(千八百七十八石余三川雀)あり、村員、春雨咄に百卅六村、二葉松に百四十村、三川堤百十四村、刪補松に百四十三村お挙たり、