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梧窻漫筆拾遺
三河の武士 両度天下お取りたれども、此事世に知れるものもなく、まして記載せるものもなし、己卯〈文政二年〉の秋、予〈◯太田錦城〉先主人吉田の松平侯の扈従として、三河に一年在留せり、是れにて始めて此事お知りたり、さて新田の庶流は、世良田徳川お始として、皆上州新田郡の在名なり、里見は義俊流なり、山名は義範〈山名伊豆守〉流なり、是は新田正統大炊助義兼の兄なり、故に遠く隔たりて、今の上州高崎の南に山名あり、北は里見〈上中下三村か〉あり、其他は義貞挙兵の時、天狗山伏の催促せる、三国峠お越て越後の羽川鳥山等なり、然るに下野足利郡に足利と雲ふ処はあれども、足利庶流の人は、村名一もなし、少き時〈天明七丁未予二十三〉に、毛の野に浪遊して、此事お不審に思ひたれども、誰ありて此等の事お弁知せる人もなし、三河に在留して、其輿図お披見すれば、足利庶流第一たる、仁木細川は額田郡、矢矧川の東に並びたる村名なり、吉良、一色、今川、荒川、戸け崎まで幡頭郡の村名なり、されば鎌倉の初に、足利庶流の人々お、此国に封じたり、細川、一色の人々、又己の次男三男お分封せし地と見えて、三河の国中に、一色、細川と雲へる在名火しく見えたり、元弘、建武の乱にて、尊氏天下お領し給ひ、慶長の乱にて、御当家天下お領し給ふ、三河武士の両度まで、天下お経営したること奇と雲ふべし、妙と雲ふべし、