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駿河国新風土記
六国府
和名抄、国府在安倍郡、行程、上十八日、下九日、今案るに、府より京まで今の道七十五里といふ、〈◯中略〉府お当郡に置れし事、いづれの御代といふ事おしらず、古は廬原郡にありて風土記に、古国府とある所是なり、今は廬原郡にある事は、むかし廬原国造お任されしより、其氏人五百原君代々この所に住して、国の政おもとりしからに、国守の府も援に定りしなるべし、〈◯中略〉国分寺お置れしは、神亀三年聖武天皇の御代なるに、廬原郡北高橋にありと、風土記にあり、こは府の東西に建といふことなれば、郡おへだつることもあるべけれど、この川辺の国分寺といふも、図帳にあれば、後に安倍郡にうつしたるにや、然れば府のうつりたるは神亀より後ちにて、風土記のなりたる延長より前なるべし、〈◯中略〉今の町は、往昔安部市の旧跡なり、其むかし、今のごとく小路などの町ありしにや未詳、永禄九年今川家の老臣飯尾豊前守といふもの、野心の沙汰ありて、遠州掛川の城より援に招寄て、家人に命じて誅せし事あり、其時小路軍といふ事ありしと見えたれば、今の如きまちのありしことは知られたり、其後永禄天正二度の兵火にて、昔の家居は残りなく失て、天正より以前援に住しといふもの有事なし、かくて慶長の初めより、民家もそここヽに建初たるお、同十二年神祖援にうつり賜ひて、同十四年彦坂久兵衛光政、畔柳寿学お奉行として、縄張して今の町お割らしめ賜ひしと雲、今の町のなれるは、友野宗善が力なり、宗善は代々府の町人の頭にて、町年寄友野与左衛門といへる者の祖なり、其家にもてる古文書あり、 定 御普請并郷夫之事 一人質之事 一壱揆之事 令帰参駿府為居住者、右如此之詰役、可有御免許之由仰出者也、仍如件、 天正三年乙亥十月朔日 跡部九郎左衛門尉奉之 駿府商人衆 今の町は、安倍郡有渡郡にまたがる、其境官道より北お安倍とし、南お有渡とす、一町両郡にわたるものなり、