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北条五代記

八丈島へ渡海の事 聞しは今、愚老〈◯三浦浄心〉伊豆の国下田と雲在所へ行たりけるに、里人語しは、是より南海はるかにへだて八丈島あり、此島は日本の地よりも唐国へ近く覚えたり、それいかにと雲に、雲しづかなる時分、此島より見れば、唐島に当り定て雲たなびく山あり、是から国より別に有べからず、然共此島おもろこしにてはいまだしらず、北条早雲の時代、関東より此島お見出し伊豆の国の内に入たり、北条氏直公時代までは、三年に一度、伊豆の国下田より渡海あるに、大船に水手おすぐり取のせて秋北風に此島へわたる、年貢には上々の絹お納るとくはしく語る所に、村田久兵衛と雲者いひけるは、我先年八丈島へわたりしが、今において此島なつかしく、夢まぼろしに立そひ忘れがたし、〈◯中略〉我主板部岡江雪入道、元来いづの下田の郷の真言坊主也、能筆ゆへ氏直公へめし出され、右筆に召つかはれたり、是により伊豆島々の事およくしられたり、故に伊豆七島のさし引お仰付られ、一年江雪斎八丈島仕置として、渡海の時節供して渡りたり、〈◯中略〉女房、絹お織、北条家へ貢絹とておさむる故にや、むかしより家主は女にて、男は入むこなり、仏は五障三従と説給ひて、女に三つの家なし、此島は世界にかはり男に三つの家なし、去程に女子お持ぬればよろこび、親の家財跡職おわたし、男子お持ぬれば、すてものに思ひ、入婿になす、万事皆女房のさし引也、此島へ日本の舟著ぬれば、島のおさきもいり先立、国衆おともなひ、其好の家に入、其家の女房お其妻とさだむるゆへに、女房共天道へ祈おかけ、我家へ国衆いらしめ給へとねがふ、国衆とは日本人おいふ、国衆いらざる家の女は、天道おうらみ身おかこちあへるばかり也、国衆入ぬる家よろこぶ事、たとへばから天竺に住付ていたる子や親が、不慮の仕合有て帰朝し、二たびあへる心ち、扠又及びなき人お、年月恋詫しがまれにあふがごとし、〈◯中略〉 江雪入道一興の事附男女別の事 むかし清盛公頼朝公の時代に至て、非常の流人おほく遠島す、西は鎮西鬼海が島、北は佐渡が島、東は夷(えぞ)が島、南は伊豆の大島ならで遠島のさたなし、それより以来延徳年中、早雲宗瑞伊豆の国お治給ひしまでも、八丈島の名お聞ず、其比豆州賀茂の住人朝比奈の六郎知明と雲侍あり、是より南海に当て島有よし聞及び、大船一艘に人多く取乗、伊豆下田のつより渡海し、彼島につき民家おなびかし、末代伊豆の国の内たるべき旨申さだめ帰海し、早雲へ此よし告しらしむ、早雲喜悦なヽめならず、八丈島見出したるけんしやうに、伊豆の国下田の郷お、朝比奈六郎知明子々孫孫、永代他の妨有べからずと雲々、故に今知明が孫あさひな兵庫助、下田お知行す、此島より北条家五代、毎年の貢絹おおさむる事、千秋万歳なるべし、