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増訂豆州志稿

形勝 豆為州、南大洋張出、三面海お環す、北方才に駿相に接し、西駿州、東北は房州と相望む、南方極天無際の大海にして、九島及小笠原島諸島の外、復一片の土壌なし、州の幅員里数お以て見れば、不甚小州が如くなれども、地形斜尖なる故、州域は則狭窄也、且中央に天城山磐礴し、函嶺左に蟠り、鐸山、達摩山右に聳へ、闔州凡て乱山復嶺、嶮阻崎嶇、唯三島の南二三里広半里許の間平地有のみ、其他は山峡渓間に傍て、栖居すべく見ゆる処に家作し、村落お成せり、〈◯註略〉誠に僻遠偏小の州故、聖武帝の時、流刑三居中、伊豆遠流地定め給ふ、〈豊太閤の頃まで、流人お遣放ずる事易らず、〉又天下諸州大上中下の四等に定るにも、伊豆は下国に列す、されども源武衛の北条に竜興し、府お鎌倉に奠しより、行程僅に三日、於是両都の間に介るお以て、稍通用宜く成り、国家〈徳川氏〉に至て、其壮麗繁栄、啻鎌倉に十倍するのみならず、是お以て州人海浜は漁猟お務め、山民は入山伐薪漕運に習ひ、魚物薪炭等お都下へ輸す、順風には旦に開帆して午時に達す、陸路は緊要の急事には一日に至るべし、実に水陸交通の州となる、夫三島は箱根山上口也、海舟往来は下田奥に繫泊せざるは少し、予〈◯秋山章〉嘗曰、地当水陸形要、実江都之扼喉、伹土田狭隘にして、且磽確、是お以て粟米麻糸の産寡少、民衣食に営々して、殷富の者なし、