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増訂豆州志稿

郡郷 君沢郡 〈郷名、載田方郡、〉村六拾六〈増、町一、村六十一、 此郡は田方郡お割て置所なり、但六村は那賀郡より入る、〉小浜池より流出る水お広瀬と雲、下流数派となる、其一の小溝お君沢(きみがさは)と雲、是郡名の起なり、或雲、鎌倉の頃郡宅郷と雲あり、古文書に見ゆ、〈増、三島大社貞和、観応、延文等文書、郡宅郷お載す、此より起れる郡名なるべし、〉此に始ると、本君沢荘と雲ふ数村の荘号なるが、次第に広り、元禄の頃に至り、五拾余村となる、〈増、天正十八年諸村撿地帳、君沢郡の称あるお思ふに、当時既に郡名となりし事著し、然れども未一定ならず、同年度御園村撿地帳に田方郡、久料村帳高田郡と記し、また同年中島村、〈神益〉同十九年中村〈南〉文禄三年塚本村丹那村等の帳に、君沢郡と記し、其他一村にして一は田方、一は君沢の記載あるなどお見て、其錯雑なりしお知る可し、〉同十四年、御代官小長谷氏の時、川原谷、冢原北沢、大場、市野山、山中、谷田、中村、多呂、三谷、竹倉、中島、篠原の拾三村、君沢郡たる可きの令ありて郡始て定まる、〈増、此時令ありて今の如く定められしなり、国郡沿革考曰、君沢荘戦国の時、既に郡となる、故に正保図之お載す、寛文中復古の時之お停す、元禄十四年に至り、再び此郡名お置しなり、而して正保図既に六十八村あり、元禄の時六十九村あり、大抵今の地に同じとある、其停廃再置お雲るは億測の説なり、現今本郡の区域幅員、東山脈川流お以て田方郡に界し、北箱根山脈及川流お以て相模、駿河に界、南山脈お以て那賀郡に界し、西面は海に枕む、(中略)東西二里、南北七里、〉