[p.0681][p.0682]
南方海島志
小笠原島 赤水雲、文禄年間、信州深志の営、小笠原民部少輔定頼者避之、故に総名お小笠原島といふ、〈◯中略〉延宝の初め、紀州より橘お載たる船、江都え往んとして颶風に遇ひ、是島に漂著せり、幸に便風ありて帰ることお得て、之お官に告す、県官乃ち長崎の人島谷氏中尾氏に命じ給ひ、唐船様の船お造り、長崎の善操船者、其外三拾余人旌節お立て、延宝三年閏四月五日、豆州下田お開帆し、先八丈島に到り、夫より東南の洋中お探り、遂に八十余島お見定む、島谷氏等三人、皆頗る学術有て、天文おも暁したるもの也、故に天度の高下、島の大小及産物まで図記し、島え表木お建て、日本伊豆国の属島たる事お著記し、是年六月二十日下田え帰帆す、