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甲斐国志
一提要
道路関梁 本州九筋より他州へ達する道路九条あり、皆路首お酒折に起す、〈酒折は上代の府治なり、古蹟部に委し、〉酒折の北は板垣村官林より、金峯、御岳に連綿して、人従罕に至る、南面して前に在る三路お、若彦路(わかひこぢ)、中道(なかみち)、河内路(かはうちぢ)と雲、凡そ此路すぢに属する村里お中郡と称す、左は雁坂口(かりさかぐち)、萩原(はぎはら)口、鎌倉海道なり、謂之東郡、右は穂坂路(ほさかぢ)、大門嶺(だいもんたうげ)口、諏訪口是お西郡と呼ぶ、其大体お三分して、仮りに呼ぶ言葉なれども、軍鑑等にも所記にして、今尚ほ人口に存したり、 若彦路(わかひこぢ) 板垣村より東南へ出て、国玉(くにだま)、小石和(こいさは)、八代(やつしろ)、武居(たけ井)お経て鳥坂お超、上下壱里余、蘆川村に口留番所あり、自府中五里、都留郡大石村へ三里、〈◯中略〉 中道(なかみち) 駿州の通路三条あり、其中間なる故に名とせり、府中より三里、右左口(うばぐち)村に至る、〈本馬弐百四拾弐文、軽尻百五拾文、駕籠四百七拾五文、人足七拾五文、〉迦葉(かせふ)坂お越て九一色郷に出づ、凡三里にして古関村、此所に口留番所あり、阿難(あなん)坂上下二里半にして精進(しやうじん)村、〈古作背地又兄地、在富士山北麓、〉又二里にして本栖(もとす)村、置国界番所、〈番人の事は、記令吏部、〉自府中拾里半、自本村壱里八町到駿州根原村、人穴(ひとあな)、上井田(かみ井で)、〈若彦路相会す〉大宮、東海道吉原駅まで総て九里余なり、〈此路、天正壬午後、神祖数回御通行の事は、古蹟部に詳なり、〉 河内路(かはうちぢ) 古時伝逓は、府中より三里半にして市川大門宿、〈本馬弐百拾弐文、軽尻百四拾文、人足百六文、〉又三里半にして巌間(いはま)宿に達る、〈但し帯那通りなり、此処に廃関の跡あり、後置黒沢宿、自市川壱里拾弐町なり、超割石峠弐里にして岩間に出づ、此路も神祖御通行の事あり、古蹟部に出づ、〉慶長以後、富士川通船開けて便道なれば、西郡鰍沢(かじかざは)宿へ逓送す、自府四里八町、〈本馬弐百七拾壱文、軽尻百六拾四文、人足百弐拾四文、〉鰍沢黒沢二村、夾川相対して、各々口留番所あり、河内領と九筋堺なり、〈◯中略〉又鰍沢より此方於青柳分岐して荊沢(ばらざは)宿に馹行す壱里、〈本馬百六文、軽尻四拾弐文、人足弐拾九文、〉西郡路なり、〈信州街道とも雲〉府中に係らず韮崎(にらさき)へ逓送す、荊沢より鰍沢へは壱里八町、〈本馬四拾壱文、軽尻弐拾九文、人足弐拾壱文、〉韮崎宿へ三里半、〈本馬百八拾壱文、軽尻百弐拾弐文、人足八拾九文、〉古時の西郡路は、小室に番所の廃跡あり、即ち河内領界なり、〈◯中略〉凡そ河内領は、鰍沢より南駿州廬原郡の堺に至り拾弐里余、東は同州富士郡、西は安部郡二郡の中間に介し、富士川の両崖に沿ひ長く延たる地にて、左右の山頂お限り、皆駿州の域なり、其間だに径路数条通ぜり、三沢に岐路あり、〈◯中略〉 雁阪(かりざか)口〈秩父街道とも雲〉酒折の前に孔道東西へ宣れり、〈即今官道なり、自府中往石和、〉東方に有岐、〈里人山崎ど雲〉左へ行き鎮目別田(しづめべつでん)、桑戸(くはど)等の諸村お歴て、笛吹川お済り、神内川(かながは)村、小原(こばら)村〈古へ狩野川原八日市場と雲〉に抵る、〈◯中略〉天科(あましな)に国堺番所お置く、〈自小原六里、自府中九里余、〉自是雁阪嶺の上至国界四里八町なり、武州秩父郡栃本(とちもと)の番所出づ、峠上下凡八里、無人境也、〈◯中略〉 萩原(はぎはら)口〈青梅通り、又大菩薩越とも雲、〉神内川より、井尻、於曾、塩山下お歴て萩原郡に至る、〈◯中略〉大菩薩嶺上下六里、亦無人の境なり、〈古雲玉山、即武州玉川の水、発源子此、〉都留郡多波(たば)山村、小菅村に下る二路あり、多、波山より三里にして、武州多摩郡川野村に到る、〈◯中略〉 鎌倉海道、今官道石和宿より分る、黒駒村弐里半、〈本馬百弐拾九文、軽尻八拾四文、人足六拾三文、〉本村より御坂越藤木(とうのき)村へ弐里八町、〈本馬百七拾壱文、軽尻百弐拾文、人足八拾八文、〉二村中間駒木戸と雲枝村に口留番所あり、〈府中へ五里、都留郡谷村へ八里、但間道お往き大畑村に出れば四里なり、〉自藤木御坂越三里にして、都留郡川口宿に下る、〈本馬弐百九拾文、軽尻弐百二拾文、人足百六拾八文、〉是より弐里にして、同郡上吉田村に至る、〈本馬百七拾文、軽尻百弐拾弐文、人足八拾文、〉又弐里八町にして、山中村に至る、〈本馬百六拾九文、軽尻百弐拾文、人足七拾九文、〉是より駿州駿東郡須走村へ弐里四町、〈本馬百六拾九文、軽尻百弐拾文、人足七拾九文、〉此間に番所あり、国界なり、竹下足柄嶺に達す、古へ官使来臨の道なり、延喜式曰、〈◯中略〉甲斐国駅馬、水市河口、加吉(き)、各五匹とあり、水市は山梨郡、加吉は八代都留両郡の間に在べきなれども、二所共に今詳ならず、〈◯中略〉此道塩田村に係り、国衙へ達せしと見ゆ、〈今の道は成田村、中川村、井田上村、金河原村、下黒駒村お経るなり、古へは金河暴脹して通路異なりしならん、〉塩田町屋と雲処にて、黒駒一之関駒口お取たる事、武田の文書に在り、然ば今雲市之蔵村、即ち水市駅の遺名ならんか、〈◯中略〉逸見筋に到り、分岐して三条となる、又飯田より南へ分る、西郡の通路おば戸田街道と雲、 穂坂路(ほさかぢ) 即河上(かはかみ)口なり、千塚より志摩(しま)庄、穂坂庄お歴る故に為路名、〈◯中略〉黒森と雲処に、国界番所あり、信州佐久郡、河上御所平(かはかみごしよだひら)へ三里、此間に河上峠あり、平沢及び十文字嶺〈武州へ出づ〉依路嶺(よぢたうげ)〈上州へ出づ〉等に達す、亦西方は津金、浅川へ弐里許、隔一嶺たり、 逸見路(へみぢ) 若神子(わかみこ)は通邑四達の地なり、〈◯中略〉逸見路は若神子に係らず、穴山村の車坂お上り、日野(の)の原に出て、片颪(かたおろし)の堺より花水坂(はなみづさか)お下り、釜無川お渡り、台原(だいがはら)宿に達するお古道なりと雲、即ち諏訪口なり、〈今の官道も西河路とて、台原にて会せり、〉原路(はらち)と雲は、韮崎宿より新府墟下お過ぎ、穴山村に係り、日野原に会す、〈◯中略〉自韮崎三里八町至澀沢、〈本馬百四拾四文、軽尻九拾三文、〉自澀沢三里至小淵沢、〈本馬百三拾八文、軽尻八拾九文、〉此所に有国界番所、府中九里半、信州下蔦木、又田端(たはた)へ各壱里、〈◯中略〉 大門嶺(だいもんたうげ)口 棒道(ぼうみち)と称す、凡上中下三道あり、八岳(やつがたけ)の西麓お北へ行き、信州大門嶺より、東山道長窪駅に出づ、古時軍行の宏道にて、慶長五年、台徳廟〈◯徳川秀忠〉避和田嶺嶮、自此入諏方玉ひしと雲、〈◯中略〉以上九条は皆古道なり、