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鎌倉大草紙

甲斐国の住人に、逸見中務丞有直と雲者あり、古より逸見、武田、小笠原三家は、甲州の大将なりしかば、頼朝の御時に、加賀見小笠原は信濃国の守護となり、信州にうつり給ひ、甲州半国石沢五郎に玉はり、それより代々初は本郡お知行有、東郡は加藤、西郡は逸見給はりしお、後には一円に武田拝領して、加藤は被官に成、逸見は公方へ御奉行の体也、西郡の名字の地計知行有しかば、いかにもして武田お絶して、甲州一円に守護せばやと、持氏公へ尽忠功ける、今度禅秀逆心して、京鎌倉より退治被成しかば、武田安芸守入道明庵は禅秀の小舅也、千葉修理大夫兼胤は婿也、両人ともに持氏の寵臣、二階堂三河守は逸見縁者なれば、是お頼み、色々甲斐の事望申ける、去程に甲斐の国は関東の御分国にて、其氏の御所の御時より、鎌倉へ出仕申といへども、明庵も禅秀の事に恐れ不参候間、鎌倉より御勢お被向、大将は上杉淡路守憲宗也、千葉は早々降参す、武田安芸守信満もつるの郡へ馳出、二年に及て合戦すといへども、多勢に無勢不協、終に打負、信満は甲州都留郡木賊山にて自害してうせぬ、法名明庵道光、于時応永廿四年二月六日の事也、〈◯中略〉甲斐国は逸見に給はり打入けり、然といへども、京都公方より御引渡はなし、鎌倉殿よりの御意計也、此時信満入道朋庵の二男右馬助信長と雲人有、一人国へ立帰り、郡内の加藤入道梵玄お相具し、西郡へ押寄、逸見と合戦数年也、此加藤と申は、頼朝の御時、武田兄弟に安田遠江守義定と申て、遠江当国お給し人あり、梶原が讒言して、安田謀反の由、頼朝へ申上ける間、頼朝大に感則梶原と加藤の元祖加藤景廉と、二人に打手お被下、義定は法光寺にて自害被成、然ば義定の跡お加藤に被下、甲斐国に加藤と申在所あり、是は彼加藤入道妙法房の居所お、後に在所の名と也、〈◯中略〉逸見武田両家の合戦、応永廿四年より初る、終に逸見は打負、或は討死、或は自害におよび、残る人人鎌倉へ歎申間、持氏大にいかりたまひ、応永卅三〈丙午〉年、一色刑部大輔持家為大将、一千余騎発向す、しかれば甲州は要害能国にて、人の心も不敵なれば、鎌倉勢お事ともせず、度々の戦に持氏方打負しかば、持氏御旗おむけらるヽ、同六月廿六日、武州横山口より発向有て、武田お責らるヽ、信長もさる橋へ馳むかひ、責戦といへども、同八月一日、武州の七党秩父口より乱入しかば、八月廿五日不協信長甲おぬぎ降参しける、御免被成鎌倉へ召れける、加藤入道は無双の大力にて、鉄の棒お杖につきて参りける、見る人驚目ける、甲州おば京都へ御申上られ、逸見に可被下候よし、海老名三河守お以て再三御訴訟有しかども、其比の公方義持公より、高野に在し信濃守信元お召出して是に給るべきよしの上意にて、信元国に打入ける、鎌倉殿も力に不及、信元に御教書お給けり、逸見は如元西郡名字の地計お知行す、信元は武田陸奥守に成、鎌倉へ出仕申、法名は浄国院、信元に一子有、彦次郎と号、父より先に逝去す、信元にも甥なり、武勇もよし、信長に家お禅りたくおもひけれども、一度禅秀一味の科有て、京より御免なし、然間信長の一男伊豆千世丸とて、土屋の娘の腹に生れし子お養子に定て、系図并代々の御感書、手次証文不残相伝也、其比信元の家来跡部駿河、同上野と申て、甲州の主護代預り、一類余多有て、何事も信元の旨お背き横行しけり、信元一期の後、伊豆千代に跡部背きける、甲州に輪宝一揆日一揆とて両一揆あり、輪宝一揆の侍、跡部に一味し逆心お企つ、信長方は加藤も早世し、日一揆の人々計にて、度々に合戦ありしかども、運や此時に尽果けん、から河合戦に日一揆皆打負、信長は忍て信濃へ打越、京へ上り給ひける、此時甲斐は鎌倉の分国なれば、持氏お頼被申は、やがて御加勢お可給に京へ信長被参ける故に、京上方と鎌倉殿の御意趣のおこり初是なり、〈◯下略〉