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甲斐叢記

郷名 山梨郡十七〈和名抄に見えたるは十なり、今現に本郡に隷る郷のみお挙て、毎郷の下に方(けた)なる内に、和の字お標して是お別つ、委しき事は村条に記せり、他郡これにおなじ、〉 山梨〈和西郡〉 郡名の起る所なり 表門(うはど)〈和同上〉 今は万力筋に隷り、東は石和(いさは)郷、北は山梨郷にて山前お疆とし、中郡の国玉里吉(くだまさとよし)の辺是に属く、上代の府治酒折の端門に向ふ地故、表門とは呼しならん、 加美(かみ)〈和同上〉 山梨岡の北にある故に上と雲義なり、又一説に、八幡村より北すべて此郷に属く、笛吹川の上流なれば、上と唱ふるならんといふ、 竈(かまど) 又竈之郷とも、釜戸とも作けり、天正十一年、市河半兵衛、河西孫右衛門等賜はりし尊章に見えたるは、即ち、釜口村なりと雲、〈◯中略〉 大野〈和西郡〉 村名にて今に存れり、本村より東北に広く唱たる名なるべし、 等力(とヾろき)〈和〉 栗原〈和〉 以上共に古は、巨摩郡に在り、 深沢(ふかざは) 勝沼より東の山間にある諸村おいふ、鎌倉以後の名とみえたり、今深沢といふ一叢戸あり、 於曾(おぞ)〈和東郡〉 村名今に存れり 御座(ござ) 熊野村熊野神社、寛正三年、及び天文十八年の棟札に、甲斐の国御座の郷横井村雲々とあり、権現鎮座に依て起れる名ならん、横井は今本村の小名に存れり、 玉井(たまのい)〈和東郡〉 又玉井の里と雲り、続日本紀延暦八年の条下に、山梨郡人雲々、改本姓古爾(こんど)等為玉井とみえたり、竹森村に〈高森玉森武森とも作けり〉玉宮明神あり、黒水晶高六尺許なるお神体とす、〈又玉室、或は玉諸ともいふ、〉社中に水晶石英お産す、玉井と雲池あり、郷名の起る所なりと雲、 玉の井の氷の上に見ぬ人や月おば秋のものといひけん 式子内親王 いづくにか月は宿りぬしかはあれど影おみがくは玉のいの里 慈鎮 松尾(まつお) 天文永禄以来の文書に、村名お斥て妄りに郷とすること、一時の風なり、以下准之、 鹿野(かの)川 又狩野川、或は神内川と作れり、村名なり、又加納とも作けり、 青沼(あおぬま)〈和〉 古昔は巨麻郡に属く 鍛冶田(かぢた) 恵林寺(えりんじ) 大八幡(おほやはた) 八代郡十六〈和名抄には五あり〉 八代〈和〉 郡名村名共にあり 石禾(いさは)〈和〉 昔時は山梨郡西郡の郷名なり、石禾の文字、今は石和と作けり、石沢伊沢にも作るヽ〈◯中略〉東は石和川の古道お限り、鵜飼川の西にて、今は八代郡小石和筋に属ける河内小石和等の十村も、其頃は山梨郡の中郡へ地続にて、共に石和郷なる故に、大石和小石和の名はありしならん、 国衙(こがく) 又小岡郷とも作けり、村名なり、下学抄に、諸国府、謂之衙、古しへ官庁お置れし処なり、遺基詳ならざれ共村内に禁牓お掲る処お、端門の止なりと雲て、大門と唱へ、孔路宣れり、又数十歩ならずして、百歩許の高夾き地、陸田となる地お字して台上と雲、当時庁屋の止なれば、黎庶の廬舎すべき処に非ずと雲伝へたり、延喜式に載する官駅お、鎌倉海道と雲て、此処へ懸れり、和名抄拾芥抄等みな、府在八代郡雲々、庁屋の事は村条に記せり、 井上〈和〉 昔時は山梨郡東郡の郷名なり、童謡に、甲斐のくろ駒、井の上そだちとあれば、黒駒の牧に連りたる地なり、 塩田(しほだ) 末木村長昌寺の支什大般若経奥書に、甲州山梨郡〈今属八代郡〉一宮荘塩田郷傘木村と見えたり、〈按るに傘は〓の字の誤りなり、〓音垂(すい)、草木華葉の〓なりと、字書に見ゆ、後人簡易に就き、末の字に換ゆ、義通ず、〉中古塩田村に古屋対馬といへる長者あり、其が知れる所お都て塩田郷と呼しにて、古の郷名には非るべし、〈◯中略〉塩田は鎌倉海道の中宿にして、便りよき処なれば、後々までも立置れしゆえに、其名伝はりしなるべし、今塩田村に、東門西門と雲地名存れり、又町屋と雲、一叢の人戸あり、古へ往来の駄荷の口銭お取し処なりと雲、林戸〈和〉 古時は山梨郡東郡の郷名なり、古事記に見えたる、波多八代宿禰の胤、林臣の賜はりし地は此処なるべし、後に林部に作る、今東原村の内に小名お存す、〈◯中略〉 田野 天正壬午、武田勝頼朝臣終焉の処にて、初鹿野山一帯の地なり、 能呂〈和〉 昔時山梨郡東部の郷名なり、又野呂とも作けり、南北二村あり、〈◯中略〉 長江〈和〉 今永井村あり、一本長井と作けり、是その遺称ならんと雲、 白井〈和〉 今白井河原村あり 曾根 姓氏録に、曾根連、〈又宿禰とも有〉神饒速日命の後なりと有て、旧姓は地名お命る事例多し、〈◯中略〉 九一色(くいしき) 山谷の間にて、耕田乏しければ、生業の難きにより、天正十年、諸商売免計の尊章お賜はれり、委くは村条に記せり、 高萩(たかはぎ) 上に同じ 沼尾〈和〉 今詳ならず、後の考お俟つ、 市川〈和〉 昔時は巨摩郡の郷名なり、又残簡風土記にも巨麻郡とす、〈◯中略〉 河合(かはひ)〈和〉 巨麻郡と並びて、同郷名あり、今も東西河内領と分れて、此の河合郷は東河内領なり、本州三郡の諸河、及び山谷の渓流、田間の溝渠、みな此に聚り、駿州の海に注る故に河合の名あり、 巨摩(こま)郡十三〈和名抄に九つ、残簡風土記に一つあり、〉 巨麻 残簡風土記に載たる郷名なり、然るお和名抄に載せざるは、故ありて停廃られしにや、又は脱簡せしならん、〈◯中略〉 逸見(へみ)〈和〉 速見又倍見と作けり、其外の記録には皆逸見とせり、按に、逸見は波置(はみ)なり、古事記にいへる、武内宿禰の男、波多八代宿禰の裔、波美臣が賜はりし地なるか、波美は反鼻なり、〈波と反と通ふ、比の濁声美に近し、◯中略〉又逸(いつ)の字おもはやと訓り、橘の逸勢と雲る類なり、速の字も同じくはやと訓たり、はやははに約まり、浪速津と言ふが如し、然ば逸見速見共に波美の仮字にて、倍見と訓通ふべし、他邦の人へんみと呼者あり、反鼻の仮字に似たれども、是は一時の音便なり、後世名義の解き難に因て、種々の議論起り、辺字偏字経字お充るあり、或は穂阪庄に引及ぼして、穂見に通はする説あり、皆附会にして信がたし、 亀沢(かめさは) 村名にあり 真衣(まき)〈和〉 万木乃国、用真木野字とあり、又里名もあり、余戸郷の北、二十余村みな此郷に属く、牧原村の地、其遺名なり、又牧名に出せり、 余戸〈和〉 延喜式に、凡郡不得過千戸、若余五十戸以上者、分隷比郡雲々、余戸の名、此に出るならん、和名抄に、諸国ともに此地名あり、中世甘利庄と雲も余の義なり、 西山(にしやま) 竜王村の古名なり、本村、西は釜無川の涯高くして、釜無川押脹しお、機山公〈◯武田信玄〉の時、大役お興して水お治め、西山の郷民お此に移さる、永禄中の文書に、於竜王川除、作家令居住者雲々とある是なり、慈照寺に蔵むる慶長以前の文書には、皆西山郷とあり、今も西山禅林と称べり、 宮地(みやぢ) 又宮路とも作けり、中下条村松尾明神の社頭に隣る一叢戸お、今も松尾宮地と呼ぶ、本村里長の蔵てる元亀三年の印書に、上条堰破損、〈◯中略〉牛句郷、中下条郷、下方郷、大下条郷、天狗沢郷、宮地郷、再興可致也雲々、上に謂へる如く、天文永禄以来の文書、妄りに村お斥て郷とせしこと、一時の風なりとみゆ、 大草(おほくさ) 異本曾我物語に、大草郷蘆倉村奈良田村などは、工藤庄司が知行所なりとあり、御勅使(みていい)河の入に数村あり、白根諸岳の間に傍ふ、此山の西北は信州伊奈郡大草郷なれば、援にも大草と称るならん、 大井(おほい)〈和〉 中世大井庄とも雲へり、最勝寺鐘の銘に、甲斐国大井之庄最勝寺洪鐘雲々、弘安六年未八月日とあり、〈この鐘、今は身延山に在り、〉北は相沢、即ち八田御牧の界なり、〈相沢とは間沢の義なり、今鮎沢に作り、〉南は河内領に接き、東は滝沢お限り、みな此郷の内なり、 稲積(いなづみ) 又庄名にも里名にも見えたり、巨摩郡中郡、上条、中条、下条、西条、北山筋の石田篠原に係り、山梨郡の小瀬小曲に及ぶ、東鑑に稲積(いなづみ)、庄小瀬村あり、〈◯中略〉 鎌田(かまだ) 槻米明王寺の神主左京が元亀二年の容に、稲積十二郷鎌田八郷と見えたり、又宮原村鎌田八幡宮、享徳四年の棟札に、鎌田八郷とあり、大永天文中の棟札お校するに、宮原、高室、上中島〈今の窪中島村〉阿荒(あヽれ)〈又阿原とも作けり、今紙漉阿原村なり、〉おしこし、〈今押越村と作けり〉中立(なかだて)〈今の中楯村なり〉西荒(あれ)〈西荒居(にしあらい)、今西新居村と作けり、〉古市場(ふるいちば)、以上八け村なり、慶長の棟札に、大津、堀内、極楽寺、円満寺、関口、井口の六村お加へたり、さて寛文の棟札には十四村と見えたり、 加藤(かとう) 鎌倉大草紙に、加藤次景廉(かとうじかげかど)に仰せ、安田遠江守お誅せらる、〈◯中略〉甲斐国に加藤と雲在所あるは、彼の入道妙法房が居所お、後に所の名に申すとなり、〈◯中略〉加藤今は河東に作る、天正十九年卯年、加藤光泰が上河東村産霊(うぢがみ)へ寄進状には、為加藤権現領、於彼郷五貫二百文寄進とあり、以前の文書に、河東と書たるも多きは、通音ゆえ交へ用ひたるなるべし、 河合(かはひ)〈和〉 八代郡に詳くしるせり 都留郡七〈此郡の郷名、和名抄にあるのみなれば、別に標記おなさず、〉 都留 又里名もあり、出雲風土記に、依霊亀元年式、改里為郷、其郷名字者、被神亀三年民部省口宣改之、これ古へ郷里、同地にして里と称すること、尚旧き事知ぬべし、 相模(さがみ) 名勝志に、今の道志秋山の辺ならんと雲、日本後紀延暦十六年三月二日、先是、甲斐相模二国、相争国界、遣使定甲斐国都留郡、鹿留村東辺砥沢為両国界、以西為甲斐国地、以東為相模国地雲雲、鹿留砥沢〈今作戸沢〉両村今に在り、砥沢は鹿留の東一里半ばかりにあり、道志秋山は山お隔て其東に当り、相模国へ接きたればこの名あるなるべし、日本後紀、今の地理に能く相適へり、然れど此時国界相定り、道志秋山は相模の国の分内となりしが、後また本州に立かへりしならん、又道志より東南の山お阻て、相州の疆域に中川帚沢等の山村あり、是お山相模と雲、〈◯中略〉 古郡(ふるごほり) 上野原牛倉明神、慶長六年並に元和元年の棟札に、古郡と雲、又古郡山月光寺〈和見村〉あり、皆郷名の存れる所なり、〈◯中略〉 福地 残簡風土記に、福地郷土穀五百六十七束とみえたり、鳥沢辺左右の村落、其地なるべし、上鳥沢駅の南の方一孤丘あり、上に小祠お置て福地権現と称す、又接近の地、縄上村小松明神、文永癸酉年十二月十五日棟札に、都留郡福地郷縄上村とあり、又鳥沢の南桂川お隔て藤崎村あり、古き打量帳に、伏地崎又伏崎とも記せり、是又福地崎なるべし、 多良(たら) 中古田原郷に作る、谷村の西廿町許に、田原下浅間(しもせんけん)の叢祠あり、滝あり、田原滝といへり、〈土人今十日市場の滝と雲〉文亀元年十一月、塩山向岳寺、武田刑部大輔信昌朝臣の文書に、都留郡田原郷深田村之内、光沢(みつざは)、分年貢銭廿七貫之在所雲々、〈深田村、今下谷村の支村にして、本村の東十町許にあり、民戸僅に六七在り、〉永禄十二年十一月十九日、機山公の文書に、都留郡田原之内廿七貫文とあり、按に、上は田原滝の辺りより、下は田野倉辺まで二里半余の間、左右の諸村、皆田原郷なるべし、田原とは水田多き原お雲、凡一郡水田の開けし所、此地に勝れるはなし、郷名の起る処知りぬべし、 加美(かみ) 十日市場より富士の麓までの際、三十村ばかりお総て上郷と称す、山麓に依て地稍高き処なる故に雲なるべし、水源お上と呼ぶ、此辺一郡の水源なれば、加美と号せしにや、 征茂(せも) 国志稿に、丹波山村の枝村加茂沢と雲へる処に、加茂明神の旧社あり、〈残簡風土記に載る古跡なり、村条に詳なり、〉征の字は加の字の誤写にて、丹波小菅より、今は武州の域に入り、境村と雲辺り、即ち加茂郷にてや有けん、那波道円が和名抄お校する凡例にも、誤謬の訂定かたかりし事お記したれば、全く誤字無かるべきにも非ず、名勝志に、征茂は志茂の転語にして、下郷の謂ならん、又は川茂と雲処、その遺名にやと有れども、明拠なし、且かの辺には、皆引当べき郷名備はれり、しかるに丹波小菅などの壙遼き土地に、郷名お欠く謂無ければ、その説も覚束なく思はる、 追録、春村の説に、征の字音せいと呼ぶ、せいの約しなれば、しもは即ち下(しも)なるべしと雲り、 西原(さいはら) 西原村宝珠寺に蔵むる、永徳二年壬戌に書写の、大乗経の巻の尾に、甲斐国鶴郡内西原郷就地蔵堂書写、並施入者也、本願法末並中陽謹書畢と見ゆ、 競石(くらべいし) 上下初雁二駅の間にある地なり、東鑑にみゆ、事は波加利庄(はかりのしやう)に記せり、