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裏見寒話

又雲〈◯或説〉此国の気質不直にして、人と争て死お忘れ、上は下お不愛、下は上お不敬、道理不弁にして、郤て恨お含む、辺鄙は心無道にして、人の妻妾お盗、傍若無人なる事多しといへり、信虎信玄の如き智勇鳴世なりといへども、父子の親みお失ひ、多欲驕慢にして亡国の萌お致す、然れども天文御入国以来、年季二百に近く、仁政の風化によつて、国俗の姦曲お転じ、殆尭俊の民たらん事、必然たるべきもの歟、此外悉くは書篇の下お以て可窺国事といふ、 又雲の一段に答ふ、是信玄信虎へ孝道欠たるより、割り出せし論ならむか、信玄の事は意味有る事と見へたり、気質不直の説解しがたし、希に不直の者も有べし、他国より多くなべてといふは非也、上は下お不愛、下は上お不敬と、是大きに違たる事也、彼国百姓農人の家に、譜代の家来と年季の家来あり、譜代の家来や名付子、烏帽子などいふ、鉄醤付子、是はえぼし子とはいはねど、かね付子といふ、是等や、手習子等の後々まで、師匠や親分などへ勤る事、中々他国とは格別に見ゆ、他国にて彼国の如くする事お一度も不見、〈◯中略〉何ぞ不愛不敬といはんや、又道理不弁にして恨おふくむと也、道理不弁の事は人による也、凱国風にあづからんや、論ずるに及ばず、在辺は心無道にして、人の妻妾お盗み、傍若無人となり、是も予が覚へしとは表裏也、予が住居し比迄は、余人の不義沙汰などの噺は、互に噺し合とても、小声密々と噺す事也、其故に、我身にあづからぬ他人の不義事にても、心中には憎む事強しと見へたり、〈◯中略〉甲府の風俗は、柳沢家入国以来、江戸町人等の風俗移りてあしヽと見ゆ、在郷の風俗およく〳〵考へて国風お評すべし、〈◯中略〉予が聞伝へし事は、甲州ものヽ生得は、一大事と思ふて秘する事は、親子兄弟妻にも、露ばかりももらさぬ所有りて、心の底にいたりて深き所有といふ、〈◯下略〉