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諸国名義考

相模 和名抄に相模〈佐加三、国府在大住郡、〉名義は、或書に神倭磐余彦天皇、欲平東夷之時雲々、自大山之中津峯、遥叡覧之、而勅嵯峨身哉、此軍之諸人、依之有嵯峨見之名雲々、足軽明神昔狩人也、或時離寵妻有悲傷、故常見亡妻之鏡、思之相模、如見其亡妻、故曰相模といへるは、いと〳〵みだりなり、わきて鏡の説は字義になづみたる、いみじき妄説なり、皇国のいにしへ、音もていへる事なし、県居大人は身狭(むさし)の国なり、西国北国にては前後もて国お分け、東国にては上下もて分る例あれば、こは身狭上の略なりと雲れつれど、穏ならず、上下と分つにも又例ある物おや、国名には、上(かみ)某下(しも)某といふはあれど、某上某下といふはなし、されど郡名にはあれどそは異なり、古事記日代宮の段の弟橘比売命の歌に、佐泥佐斯(さねさし)、佐賀牟能袁怒邇(さがむのおぬに)雲々とあり、