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古事記伝
二十七
佐泥佐斯(さ子さし)は、相模の枕詞とは聞ゆれども、いかなるごととも未考へ得ず、〈されど誠に強ていはゞ、佐斯は国名にて、佐泥は真と雲と同く、美たる言ならむか、即真字お佐泥ともよみ、さねかづらなども、真かづらと雲意の名と聞ゆ、其おさなかづらとも雲は、稲お伊那、金お加那と雲格なり、又万葉集十四に、萱お佐禰加夜ともよめり、されば佐斯てふ国おほめて、佐泥佐斯とは雲ならむ、さて佐斯お国名と雲は、駿河、相模、武蔵の地お、総て本は佐斯国とぞ雲けむお、二に分て、相模武蔵とはなれるならむ、駿河は後に又相模より分れたること上に雲るが如し、かくて其相模と雲名は、佐斯上の斯お省き、武蔵は、身佐斯の意なるべし、(中略)さて佐泥佐斯佐賀牟とつゞけ雲は、御吉野の吉野、佐檜前檜前など雲例の如し、延唯雲、佐下斯上脱泥字乎、下巻軽皇子歌、佐泥斯佐泥氐婆、万葉集、左宿左寐氐許曾と雲るはわろし、此はさね〳〵しと雲ては、末句にかなはず、又契冲雲、相模の枕詞なり未詳、今按に旧事紀并に此紀に武蔵お胸刺と書たれば、牟泥佐斯お略て、牟佐斯とは雲なれば、今は、狭胸刺(さむ子さし)の牟お略て雲るにや、武蔵相模は、もと一にてあるべければ、かくはつゞけたるにや、相模国は武蔵より小ければ狭胸刺と雲かと雲れど、此記には、武蔵は牟邪志とこそ書たれ、胸刺とは書たることなし、旧事記にも、牟邪志と胸刺〉〈とは別に挙たりいかゞ、又師(賀茂真淵)雲、佐は発語、泥は奴に通ひ、奴と牟とは又通へば、牟佐斯なり、古武蔵と相模と、一国にて分れぬ時には、かくもよむべしと雲れたるもいかゞ、牟佐斯お泥佐斯とはいかでか雲べき、又或人相模国は小き峯の多き国なるに因て、小峯刺(さ子さし)の意なり、刺は立なりと雲るもいかゞ、又己も前に思へるは、佐は例の真の意、泥は峯にて富士山お真峯とほめ雲、佐斯は立ならむ、駿河も旧相模なれば、富士山お以て、枕詞とせるなるべしと思ひしもわろし、〉