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新編相模国風土記稿
二建置沿革
抑当国の号、正史に見えしは、古事記、日本紀、共に景行帝の条に出るもの、是お始と雲ふべし、〈◯中略〉国造本紀に拠れば、此朝、意富鷲意弥命おもて師長国造とせらる〈曰、師長国造、志賀高穴穂朝御世、茨城国造祖、建許呂命児、意富鷲意弥命、定賜国造、〉師長は即倭名抄当国余綾郡の郷名に、磯長とある是なり、今是に拠て、上古は全く相模、師長二国たりしとも雲ふべきなれど、猥には、然定難きなり、されど北方山間嶮阻の地は、左加牟と唱へ、南方磯辺の地は、磯長と称し、自然区別せし事は、識るべからず、〈◯中略〉斯て頼朝平家追討有て、鎌倉に府お開き、建久三年、征夷将軍となるに及び、海内の諸士靡き従ひ来たりて、府下に仕ふる者、各便宜に就て、邸宅お経営す、就中府下に属する所は、更に山林お避て、尼近の諸士居宅お構へ、市廛周匝して、頗繁栄の地となり、国地の風俗、滋に一変せり、元弘已来、又戦争の地となりしかば、漸古制廃蕪して定規お失ふ、滋に至て郡郷邑里も紛紜し、疆域称呼も定かならざりし事識るべし、故に此際の事状、今より測り得べきに有ざれば、措て弁ぜず、又此際郡界変遷し、余綾郡の地大住郡に入るものあり、或は大住郡より高座郡に隷入し、鎌倉郡より三浦郡に分隷するものあり、其年紀古伝なければ詳ならず〈事は各郡の条に弁ず、此他村里に至ても、或は荒蕪し、或は新開の地あり、是等は村里部に干係すれば、滋に贅せず、〉足利管領九代の際、又治乱定まらずして、地理の事記載すべきなし、明応に至り、北条新九郎長氏、伊豆国に起り、尋て当国に移りし後、稍治平して九十余年、本州全く北条氏の有となる、当時各郡の唱お廃し、三浦郡の外は、闔称して東郡〈鎌倉高座二郡〉西郡〈足柄上上二郡〉中郡〈愛甲、大住、淘綾三郡、〉と呼び、今の津久井県の地は、元来愛甲、高座二郡の所属たれども、自然区別おなし、当時分て奥三保と唱へ、或は津久井領と呼べり、天正十八年、豊臣太閤の為に、北条氏滅亡し、東国総て御分国となりし後は、各郡旧称に復せり、但し足上足下お足柄上、足柄下、余綾お淘綾と書改しも、此頃よりの事か、今詳にし難し、〈按ずるに、治承の昔、頼朝鎌府お開きしより後、郡名お唱ふる事希にして、多くは郷庄の唱おもて呼べり、さるが故、郡名は全く廃せし如し、されば其文字も唱も、当時定かならざりし事識るべし、此他多加久良お多加左、阿由加波お安以加不、与呂岐お由留岐と唱る事も、其権輿詳ならず、各郡の総説、併て見て考ふべし、〉其後正保中の改定に、彼津久井領別区の地、全く分ちて津久井郡とす、即高座郡の所属十村、〈上下川尻、中沢、三井千木良、与瀬、吉野、沢井、小淵、佐野川等なり、〉愛甲郡の所属十九村なり、〈葉山島、小倉、根古屋、大井、荒川、中野、又野、三け木、青山、関、鳥屋、寸沢嵐、若柳、青野原、日連、名倉、牧野、青根、長竹等なり、〉されど正しく定られたるには有ざりけん、夫より已後の御朱印に猶所属の郡名お係て記されたり、斯元禄四年に至り、山川金右衛門奉はり、更に分割して津久井県と称す、今に至て然り、〈尚委しくは、高座愛甲二郡、津久井県の総説、併せ見て識るべし、〉又豆相の国界、正保の改定には、足柄下郡西方、峯通りお国界とす、然るに元禄十一年争論ありしかば、同十三年糺決ありて峯通より此方、門川の中流お限て、国界と定らる、〈事は足柄下郡土肥宮上村条、併せ見て識るべし、〉又駿相の国界も、滋年改定あり、旧は足柄上郡西方、足柄峠峯通り、国界たりしが、此時峯より此方十町余お下りて、二州の界とす、今に至て然り、