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日本地誌提要
十七相模
沿革 古へ国府お大住郡に置、〈府止未詳、今淘綾郡に国府本郷村あり、〉源頼朝の興る、府お鎌倉に開き、総追捕使となり、兵馬の権お握り、本州、及伊豆、駿河、武蔵、上総、下総、信濃、越後、豊後九国お以て、其管国とす、文治中、後白河法皇特旨お以て、本州お頼朝に賜ひ世襲せしむ、建久三年、征夷大将軍に拝す、頼朝の後二世にして嗣絶え、其臣北条氏、世執権となり、州守に任じ、将軍お廃立する者六世、〈藤原頼経父子、及親王四世、〉元弘三年、後醍醐天皇北条高時お誅し、建武元年成良親王お東国管領に任じ、足利直義お執権とし、鎌倉に鎮す、明年、足利尊氏東下、遂に反して自ら将軍と称し、府お鎌倉に定め、京師お犯す、子義詮お留守として八州お控制せしむ、正平の初、其弟基氏、代て関東管領となり、鎌倉に居り本州お領す、永享の末、基氏曾孫持氏に至り、其執事上杉憲実と隙お生じ、遂に将軍義教に滅され、山内の上杉清方、管領の事お行ひ、州事お知る、文安中、持氏の子成氏再管領となり、旧怨お修て憲実の子憲忠お誅す、其弟房顕自ら管領と称し、兵お挙げて之と抗す、成氏連戦克たずして、下総古河に奔り、山内氏遂に本州お掠取す、長享の初、扇谷の定正、山内の顕定と相攻め、遂に其地お取る、〈山内の上杉は憲顕より出、顕定は其八世の孫なり、扇谷の上杉は憲顕の伯父重顕より出でヽ、世相模の大場城に居り、後武蔵川越に移る、定正は重顕七世の孫なり、〉既にして北条長氏伊豆に興て、小田原〈大森藤頼〉新井〈三浦義同(あつ)〉諸城お陥れ、上杉氏お遂ひ、終に全州お併呑し、治お小田原に定む、相伝る五世、天正十八年、豊臣氏東征、北条氏亡び、徳川氏関東に遷り、大久保忠隣(ちか)お小田原に移封す、後稲葉氏之に代り、貞享中、再大久保忠朝に賜ひ、其支封お荻野山中とす、〈大久保忠朝の第二子教寛〉又奉行お浦賀に置き、船舶の出入お監す、王政革新、改て県となす、既にして廃して足柄県お置、