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新編相模国風土記稿
二建置沿革
往古、国造、伴造等お置れし地は詳ならず、今淘綾郡に国府本郷、同新宿の二ありて、新宿の地に、本州の総社と称する、六所明神社勧請あるに拠れば、〈社伝に、崇神帝の朝、勧請すとあれば、最旧社たる事識るべし、〉此二村の地、府庁の遺従たる論なけれど、〈淘綾郡総説、滋に国府本郷村条、併せ見るべし、〉上古相模、磯長の区別ありしとする時は、今の淘綾郡の地は、所謂国造本紀に見えし師長国造所在の遺従にして、相模国造所在の地とは雲ひ難き歟、然れども当時区別の疆界お詳にせざれば、如何にとも弁じ難し、是等最上古の事にして、後世に於て容易く推考すべきにあらず、〈◯中略〉当国国司の府、及び各郡、郡家所在の地、ふつに其伝お失ふ、倭名抄には国府大住郡にありと見えたれど、今彼郡中、其遺従と思しき地、考ふる所なし、前条に弁ぜし如く、淘綾郡、国府本郷、同新宿の地、府庁の遺従たるは論なけれど、是は上古已来国造の府跡にして、司の遺従には有ざるにや、又高座郡に国分村ありて、今尚国分寺旧刹遺れり、彼寺多くは国府に建らる、是に拠れば、天平の昔は、国府高座郡に在しとも雲ふべし、とかくは往古此彼府お移されしなれど、其遺名だに、後世に伝へざるならん、今に於ては、正しく弁別し難し、斯て治承已来、頼朝鎌倉に在住し、国守は執権の兼任となるに及て、別に司の府庁あるべからず、又国中の邑里、過半尼近の諸士等が私有となり、且当時諸国に国衙お建て守護使お置き、庄園に地頭職お定むるに及て、司の府庁は更なり郡家も必滋に廃せしなるべし、さて本州は将軍府下の地なれば、他と異にして、別に国衙お建て、守護使お置るヽ事は有ざりけん、