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新編相模国風土記稿
十二足柄上郡
図説 本郡は、国の西辺に在お以て、北条氏割拠の頃、国中お東西中三分に闔称せし時、足柄上下の二郡は、西郡と唱へしこと、北条役帳、及当時の古文書等に往々見えたり、郡の東辺中村郷の地倭名抄には、淘綾の郷名となす、されど是は郡界選替ありて、後足柄上下二部に分隷せしなるべけれど、今古図の伝ふるものなければ、古の沿革知るによしなし、〈◯中略〉 足柄上郡は、国の西辺駿甲二州の界にあり、〈◯中略〉本郡は、都て山岳多き地なれば、酒勾川の両辺平夷の地に、多く村落おなせり、闔部の形状、宛も瓢の如く、東お首とし西お尾とす、其四至、東は大住郡に接し、南は足柄下郡に隣り、西は駿甲二州お境とし、北は愛甲郡及津久井県に辺せり、地形東より西へ漸々高く、最西は猪の鼻矢倉の二高岳に至れり、されば陸田多く〈畠段別二千百十二町一段七畝三歩一厘〉水田少し、〈田段別、千七百六十六町五畝十二歩〉用水には、専ら酒匂川の水お引沃ぎ、川音川狩川等の諸流お灌漑し、或は山間の清水お引て耕植す、土性は多く赤黒の両種にして、又砂礫錯れる地も少くあり、農業の外、専ら薪お採炭お焼て、生産の資とす、固より富饒の戸口乏し闔郡の村数、正保の改めに九十八、元禄の改めに九十五、〈按ずるに、透間、諸淵、大蔵、野嶺四村お合して一村とし、川西村と闔称し、又境原村お境村に併入し、総て援に四村お滅ず、又都夫良野村内小畑お枝郷と唱へ別村とし、更に数に入、故に減ずるもの凡て三村なり、〉今は一村お減じて九十四、〈元禄図に碾する都夫良野村枝郷小畑お、本村に併入せり、〉石高、正保の改に、二万三千七百七十三石七斗一升三合、元禄に至て三万二百四十九石六斗二升三合となる、前に増加する事、六千四百七十五石九斗一升、今又三千五百五十石一斗二合お増加し、総高三万三千七百九十九石七斗二升五合に至る、此余寺社除地、三百三十八石五升八合余、